社会そのほか速
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<昔ながらの現場>
大学は機械工学科で、エネルギー分野の研究をしていました。昭和石油(現昭和シェル石油)に入社したのは1980年で、第2次石油危機の直後でした。
初任地は川崎製油所(川崎市)。最初の1年間は装置の運転と設備の点検、修繕を交代勤務で担当しました。約400人が働いていて、大卒は20人程度。「大卒」の肩書に意味はなく、職人かたぎの昔ながらの職場でした。
仲間の信頼を得ることが大切でした。ボイラー技師などの資格も必要です。現場を仕切る「組長」と呼ばれる上司からは、「試験に落ちたら、バカにされる。絶対に落ちるな」と叱咤(しった)激励されました。資格を取り続けたのも、実績を重ねて職場の一員になるためでした。
2年目からは製油所の運転を指導する部署に移りました。設備の稼働率向上などを提案する仕事ですが、ベテランの職人たちに叱られながらの日々でした。
80年代後半、製油所にガスタービンを用いた発電機を設置するプロジェクトを任されました。製油所では大量の電気を使います。これをほぼ自給するのですが、当時では珍しい試みでした。
当時のガスタービンは不具合で止まることも多く、自家発電への不安も根強かったのです。それでも製油所の将来には絶対に必要です、と説き続けました。結果は安い電力の調達につながり、成功でした。努力をすれば成果はついてくる。「玉井の話なら、聞いてやる」と職場の反応も変わりました。
発電機の銘板は今も社長室に掲げています。製油所は2011年に解体されたのですが、「持っていてほしい」と届けてくれたのです。当時の仕事を覚えていてくれたことにうれしさがこみ上げました。
製油所には12年間在籍しました。異例の長さです。
<決断を迫られる>
95~97年にオランダのロイヤル・ダッチ・シェルの本部に出向し、帰国後は石油製品の生産計画、電力事業などを経験しました。
川崎製油所の閉鎖を決めたのは2010年です。経営企画担当の常務でした。国内の需要減が想定されていました。現場の危機感は分かっていました。それだけに、自分の決断の重みに押しつぶされそうになりました。
「お前がだらしなくてどうする。しっかりしろ」。入社した時の最初の上司だった「組長」の言葉がよぎりました。閉鎖は私の仕事だ、と決意しました。
<新分野にかける>
13年3月にソーラーフロンティアの社長に就きました。太陽電池で稼げるのか。親会社の昭和シェル社内もかつては不安視していましたが、今や時代は変わりました。原子力発電所の稼働停止で電力は不足しており、太陽光発電はエネルギーの地産地消を進める切り札になる。被災した宮城県で太陽電池工場の建設を進めています。
震災からの復興やエネルギー供給の多様化を通じて社会貢献する。社員一人一人が誇りを持って働ける。そういう会社にすることが私の仕事です。(聞き手 米沢知史)
《メモ》 国内大手の太陽電池メーカーで、昭和シェルの完全子会社。1970年代から太陽電池の研究を進めてきた。2006年に母体となる昭和シェルソーラーが設立され、10年に現在の社名に。宮崎県内に三つの太陽電池の生産拠点を持ち、生産能力は出力換算で年間約1000メガ・ワット。宮城県では15年3月末までの稼働を目指す新工場が建設中だ。昨夏には、世界で最も軽い一戸建て用の太陽光パネルを開発し、販売している。本社・東京都。
<ネットに出会う>
高校を中退し、17歳から父が経営する会社でパチンコ店の店長やビル管理などの仕事をしていました。
ところがある日、会ったことのない兄と弟がいることがわかったのです。父が突然、毛利元就の話をし、「三本の矢は折れない。兄たちを助けてやってくれ」と。
衝撃でした。会社を継ぐつもりで働いていたのに、父には最初からそのつもりはなかった。その後、経営方針を巡って父とぶつかり、会社をやめました。
「これだ」。1994年頃にインターネットを知り、そう思いました。当時は面倒だったネット接続を利用者が手軽に出来るサービスを考え、95年から始めました。その後、様々なIT系ベンチャーと仲間を増やすような形でグループになり、事業を拡大していきました。
<会社存続の危機>
2005年にはネットと金融の融合を目指し、消費者金融のオリエント信販を270億円で買収しました。ところが翌年、法で定めた上限金利以上の利息を認めない最高裁判決が出て、利息の返還請求が大量に見込まれる事態に。返還に備えるため、それまでの10倍の引当金を積まなくてはならなくなりました。
経営が苦しくなったオリエント信販には増資などで計約400億円をつぎ込みましたが、結局、500万円で売却しました。
会社は自己資本が底をつき、債務超過に陥る可能性が高まりました。倒産の危機が迫ります。
<「あきらめなさい」>
このときが人生で一番苦しかった。銀行からは融資を引き揚げると言われ、リース会社にはパソコンのリースを止められて。知り合いの投資銀行の社長からは「十中八、九つぶれる。もうあきらめなさい」と。練炭自殺する夢も見て、朝起きると汗びっしょりだった。「十数年かけて仲間と築いてきたものをすべて失うのか」と落ち込み、白髪もみるみる増えました。
会社を数百億円で売ってくれという申し出もあったが、それは断りました。責任を取る行動が大事だと考えたからです。
そんな中、ある銀行の役員が「他の銀行が引き揚げたら、うちに相談して」と言ってくれた。財務担当役員は帰りのエレベーターで男泣きです。株や不動産など自分の財産を処分して百数十億円をかき集めました。自社株を担保に個人でも30億円の借金をし、ぎりぎり債務超過は避けられました。
社の幹部は誰も逃げなかった。社員も危機を経て成長しました。幹部を支えなければという気になってくれたのです。
どん底を乗り越え、会社は成長を続けています。今年、インターネットの住所に当たるドメイン名で「.tokyo」の受け付けを始めました。東京五輪・パラリンピック開催の2020年に向け、東京のブランド力向上につなげられたらと思っています。(聞き手 鹿川庸一郎)
◇
《メモ》 GMOはグローバル・メディア・オンラインの略。1991年の創業時は電話回線で複数が会話できるサービスを提供していた。2013年12月期の連結売上高は937億円。グループ連結企業は約80社で、従業員は計約4000人。インターネットの住所を示すドメインの登録や、サーバー、セキュリティー対策などネットの基盤事業に強みを持つ。ネット証券事業では、外国為替証拠金取引(FX)の取扱高が世界一。
注文住宅事業を中心に展開する東日本ハウスは今年4月、東証第一部に市場変更し、これを「第3の創業」として、2020年にはグループ売上高1000億円をめざす。
ビール事業など多角化経営の失敗で倒産の危機に追い込まれてから10年余り。同社を再生に導いた社長の成田和幸さんは、「家づくりはお客様の夢の実現をお手伝いする仕事。お客様にとって何が一番いいかをいつも考えています」と語る。
当社がめざすのは、丈夫で長持ちする家づくりです。檜(ひのき)を使い、柱を太くした「檜・骨太の家」は孫の代まで受け継がれる「100年住宅」です。檜は日本の気候風土に合った最も住宅に適した木材です。
盛岡という東北発祥の企業として、東日本大震災を契機に、地震やエネルギーの問題に向き合いました。当社の独自技術を使って地震に強い構造を実現し、太陽光発電システムを価格据え置きで標準搭載しています。「自分の住宅のエネルギーは限りなく自分で創り出す」という考えに立った「エネルギー自給自足の家」です。
創業の精神として「学歴不問」と「実力主義」を掲げ、「人間性」を最も重視しています。住宅のような一生に一度の買い物は、窓口となる人の人間性に、会社と商品の信用のすべてがかかっているからです。社員には、常に「損か得かではなく、何が正しいか、お客様にとって何が一番いいかで判断するように」と言っています。
いつでもお客様の声を伺えるようにお客様相談室を24時間体制にしています。お客様からリフォームの相談や新規の注文住宅のご紹介も増え、好循環を生んでいます。
「お客様にとって何が一番いいか」を貫く信念は、私が注文住宅の営業を担当していた時から持ち続けてきたものです。家づくりはお客様の夢の実現をお手伝いする仕事です。私自身、お客様と一緒に家をつくることが大好きでした。高齢になると台所の火元が危ないと感じてオール電化の先駆けとなるキッチン商品を考案したり、できる限り長く住んでいただこうと、車イスでも通れるよう幅広い廊下を提案したこともあります。
私が社長に就任した2002年当時、グループ企業のほとんどが債務超過で、いつ倒産してもおかしくない状況でした。ただ、本業の注文住宅事業は一度も営業利益ベースで赤字になったことはありません。経営不振は本業以外に原因があることがはっきりしており、再建する自信がありました。社員に会社の状況を伝え、賃金カットに協力してもらいました。「社員の皆さんにお金を借りたと思っている。会社を立て直して(借りた分は)全部戻すから」と。
ファンドの支援を受け、多角化による負の遺産を整理し、社員の給与も戻しました。注文住宅以外の事業も、現在は元気になりました。2020年までのグループの経営目標に向けて、ホテル事業の成長も見込んでいます。
今月26日には、岩手県雫石町の「ホテル森の風」に、国内最大級のガーデニング公園「フラワー&ガーデン森の風」がオープンします。日本のトップガーデナーが庭造りの技を競う選手権も開きます。
会社が倒産危機の時は私のような「やんちゃくれ」の社長がよかったのでしょう。今後、住宅市場を取り巻く環境は厳しさも予想されますが、次代に向けて社員みんながワクワクドキドキするようなグループのビジョンを語ることのできる人を育てます。(談)
<学生で起業>
インターネットを知ったのは大学3年生の時で、すっかり夢中になりました。
大学院に進学しましたが、友人とネット企業を設立しました。手がけたのは航空券の販売など。利益はわずかでしたが、仕事は順調でした。
ネットを使って社会に貢献できないか。面白ければいい、との気持ちが変わっていきました。1998年にマッキンゼーの日本支社に就職したのは、ビジネスの世界を知ってからもう一度起業したい、との思いからでした。「3年後に再会しよう」。仲間に約束しました。
職場ではネット関連の仕事を一手に引き受けました。「明日までにやります」と宣言して、徹夜で必死に仕上げた仕事もあります。経験を積もうとの一心でした。
<起業に再挑戦>
土日に起業の準備を続けました。仲間と議論を重ねて出した結論は「食」を仕事にすること。ネットを活用して生産者と消費者の距離を縮めることができないか。安心・安全な食材を便利に手ごろな値段で提供できないか。企業の理念を固め、予定を前倒しして、2年間勤めたマッキンゼーを退職して、「オイシックス」を創業しました。
<苦難続く>
当時はネットビジネスの草創期。起業はしたけれど、注文は来ない。新規顧客は社員の親戚か友人ばかり。1日2件の注文を3人の受け付け担当者が処理するペースです。お金はなく、広告も出せない。女性向け雑誌などに頼み、レシピ情報を提供する代わりにオイシックスのサイトにリンクできるようにしてもらいました。
仕入れも難題でした。食材に詳しいわけでも、グルメでもない。農家に知り合いもいません。東京・大田市場を仲間と手分けして回り、農家の電話番号を片っ端からメモして連絡をとりました。教えてもらった住所に出向いて、「ネットで売るので売ってください」とお願いしました。
ネット販売が普及していない時代です。門前払いは当たり前でした。それでも農家を回り続け、畑で雑草をむしったり、収穫を手伝ったり。顔を知ってもらいながら、仕入れ先を開拓しました。
<逆境と飛躍>
モノは売れず、お金もない。危機は続きました。創業2年目には、商品の仕分けや配送を委託していた栃木県の物流センターから「明日で廃業する」と電話が来ました。赤字が続いていたころです。1日でも売り上げが出なければ大変です。配送を止めるわけにはいかない、と社員全員が徹夜で野菜を袋詰めしたこともあります。黒字になったのは創業4年目でした。
大切なのは、消費者の声を聞くこと。2001年に発売した「ふぞろい野菜」は、見栄えは悪いけどおいしい、との評価を得ました。農家で廃棄されたナスを見たのがきっかけです。形より安全。何を大事にしているか、顧客に聞いた答えがヒットにつながりました。
東日本大震災の直後、宮城県に支援物資を持って向かいました。被災地支援に取り組む団体を設立したのは、東北の食材に支えてもらってきた思いからです。復興のためにも、やれることはすべてやるつもりです。(聞き手 伊藤剛)
◇
《メモ》 2000年6月設立で、「安心・安全」にこだわった肉や魚、有機野菜など生鮮食料品をインターネット経由で販売。14年3月期の売上高は前年同期比9.1%増の159億円で、創業以来13年連続で増収を続ける。従業員数は179人。定期会員数は8万3500人(5月10日現在)。香港でも事業を展開する。本社・東京都。
<地味な作業に明け暮れる>
「銀行は帰れ」
埼玉県浦和市(現さいたま市)で、訪問先の工場の従業員から怒号で迎えられました。日本開発銀行(現日本政策投資銀行)に入り、初めて出張に出かけた時のことでした。
私は経営不振に陥った企業を再建する部署に配属され、担保の状況を調べる担当をしていました。埼玉の工場へはわずかな備品や機械を確認するために行ったのですが、労働争議で閉鎖されていました。結局、目的を果たせず帰りました。
この経験のせいか、その後も出張というと結構、緊張します。
部署内にはかなり年上の先輩が多く、20代は数えるほどでした。再建のシナリオを描くのは先輩の役割。私の仕事は地味で、担保物件を記録したファイルを100冊かき集めて調べても、1億円分にしかならないこともありました。
都市開発や原子力発電所の建設といった大型案件の融資を扱う部署で働く同期もいました。それに比べて自分は随分出遅れた、と感じました。
以降も、銀行員としてギリギリの状況にいる会社の支援をする仕事をしていくことになります。
<そごう支援に奔走>
ドイツに3年弱駐在して帰国した直後、百貨店「そごう」の支援を担当するように命じられました。阪神大震災により、そごうはグループの利益の半分を稼ぐ神戸店が大打撃を受けました。神戸店の再開が震災復興のシンボルになっていました。
メインバンクだった二つの金融機関だけではとても支え切れない状況で、再開に向けて融資をしないという選択肢はない。しかし、貸してしまうと返済にありえないほど長い期間がかかるという試算もあり、頭を抱えました。
ほかの金融機関を回って支援に力を貸してくれるよう頼みましたが、様子見のところが多く、話がなかなか前に進みません。バブル経済の崩壊で、金融機関も人も驚くほど自信を失ったことに改めて気づかされました。
結局、そごうがほかの融資より優先して返済するという取り決めを関係者間で結んで、何とか融資を実行し、神戸店は再開にこぎ着けました。
<航空業界に>
スカイネットアジア航空も支援先の一つでした。以前、新興航空会社エア・ドゥの副社長だった銀行の先輩に頼み込んで、スカイネットの社長になってもらったことがありました。社長になるよう持ちかけられた時は、運命を感じました。企業再建に携わってきた自分の経験を伝えられるいい働き場所だと考え、転身を決意しました。
九州・沖縄を拠点にしている国内線の会社ですが、近距離のアジアと九州を直接結ぶのが目標です。本社がある宮崎は、地元の方々の人柄が良く、若い社員たちと苦楽を共にしていくのは本当に面白いです。(聞き手・戸塚光彦)
◇
《メモ》 1977年東大法卒、日本開発銀行(現日本政策投資銀行)入行。2011年6月からスカイネットアジア航空社長。スカイネットは宮崎市を拠点に02年に運航を開始し、宮崎―羽田など九州を中心に国内8路線を展開する。便名などでは「ソラシドエア」と呼ばれる。04~07年は旧産業再生機構による支援を受けたが、全日本空輸との業務提携などで盛り返し、13年3月期で創業以来の累積赤字を解消した。