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全国の女性農業者や賛同者で作る情報交換組織「田舎のヒロインわくわくネットワーク」が設立20年を迎えた3月、名称を「田舎のヒロインズ」と改め、再スタートを切った。
理事全員を40歳以下にして若返り、女性目線での発信力を高めることなどを活動の柱としていく。
メンバーは200人弱。現在、新たなNPO法人として申請中だ。
新組織の理事長に就任したのは、熊本県南阿蘇村で夫とコメ農家を営む大津愛梨(えり)さん(39)。ドイツに留学した経験などから環境問題にも関心を持って活動してきた。
大津さんは「環太平洋経済連携協定(TPP)、農家の高齢化進行、福島第一原発事故による放射能汚染など、農村を巡る大きな課題がある今、動きやすい若手が行動を起こしていく必要がある」と世代交代の意義を説明。また、「子どもたちに安全なものを理解してもらいたいという母親の目線を持つ人も多い。農村を訪れた人をおもてなしするノウハウを持っている女性の強みを新組織に生かしていきたい」とも。
新組織では<1>「どういう思いで農産物を作っているか」について、インターネットやSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)、英語などを活用し、女性農業者から国内外への女性目線の「情報発信力」を高める<2>自然なおもてなしで農村に来ていただく「受信力」を高める<3>エネルギーをたくさん消費する農業者の立場から、農作物の廃棄部分や家畜糞尿など自分たちの資源から再生可能エネルギーを作る――の三つを活動の柱とする。
最初の具体的活動としては、今夏から、福島でエネルギーに関する連続勉強会を開催していく予定だ。福島県浪江町の出身の理事で日本農業経営大学校生の松本幸子さん(28)は、大学校卒業後に同県浜通り地方での就農を目指しており、「若い女性たちが農業を目指す取り組みにしたい」と話す。
副理事長で山形県村山市にある農業生産法人「山形農業ガールズ」代表の高橋菜穂子さん(32)は「女性が『農業をやりたい』というと、すぐ『農家に嫁に行けばいいじゃないか』という声が出るが、それで解決するわけではない。農業高校や農業大学校などで学び、女性が職業として農業を選ぶようになってほしい」と話す。
また、同じく副理事長の丹羽なほ子さん(34)は兼業農家の出身。トライアスロンをきっかけに食生活を見直す「スローフード」の考えに行きつき、現在は岐阜県を拠点に野菜作りや無添加ジャム作りをしているという。
45歳の時に前身のわくわくネットを立ち上げ、2012年まで理事長を務めていた山崎洋子さん(65)にも話を聞いた。現在も福井県三国町で農業研修の学生らを迎え、ブルーベリー農園の農場作りなどに取り組んでいる。
「私たちの娘の世代に引き継ぐことができてほっとしています。田舎のヒロインズのように女性農業者が自発的、自立的にネットワーキングした組織は世界的にも珍しく、貴重な人材の宝庫。日本は自然や経済が豊か過ぎて逆にわからないことが多いので、発信力のある若い理事たちにどんどん新しいことに取り組んで欲しい」とエールを送っている。
「田舎のヒロインズ」ウェブサイトはこちら。
田舎のヒロインわくわくネットワーク 1994年に山崎洋子さんが呼びかけ、任意団体として設立。山崎さんが87年にヨーロッパ農業研修に行き、その記録を「我ら田舎のヒロインたち」という本にまとめたのがきっかけで、様々な女性農業者と知り合い、「孤立しがちな農家の女性たちの情報交換、勉強の場をつくろう」と始まった。これまで8回の全国集会を開催しており、2002年にNPO法人化された。
(メディア局編集部 京極理恵)
女性農業者がその存在やアイデアを全国に発信しつつ、企業と連携して新しいビジネスも生み出そうという、農林水産省提唱の「農業女子プロジェクト」が、11月で2年目に入った。
主役である「農業女子」メンバーは、開始時の37人から209人と5倍以上に増えた。参加企業数も開始当初の9社が途中で13社となり、今月から新たに6社が加わって19社体制になるなど、2年目に向けてパワーアップした。
同プロジェクトは、企業と連携した個別プロジェクトの推進、女性たちのプラットフォームの強化、広報宣伝活動を三つの柱に昨年11月にスタート。個別プロジェクトは、費用を参加企業が負担し、その代わりに女性農業者の知恵を拝借するという形で進められ、女性農業者と企業の話し合いで「8色の軽トラック」(ダイハツ工業)、「ドレッサー付きバイオトイレ」(レンタルのニッケン)など話題の新商品が発売されたり、農業機械の使い方(井関農機)や日焼けで肌が荒れないための講習(コーセー)が企業側から提供されたり、と様々な「成果」を上げてきた。
また、メンバーらは主にインターネットを積極的に活用し、自らの情報や「農業女子レシピ」などの情報を発信してきた。さらに、メンバー同士での情報交換によるネットワーキングも強化し、北海道若手女性農業者集団「LINKS」と連携したり、地域版「おかやま農業女子プロジェクト推進会議」を岡山で開催したりもしている。
こうした中、今月5日、2年目に入る最初の会合として、「農業女子プロジェクト推進会議」の第3回が東京・丸の内で開かれ、女性メンバーのうち15人と連携企業、サポーターらが参加した。会議では、西山美貴さん(山口県美弥市)が「家族で農業をやっていると孤独な部分もあるが、プロジェクトに参加して楽しいし、同じ悩みを話せてぱっと開けた気がした」、石渡礼奈(れな)さん(神奈川県三浦市)が「農家の長男と結婚して就農し、農業はつらくて大変なイメージがあったのが、やってみると子育てと同じで手をかけるほど育って楽しい。ごくフツーの農家の嫁さんだが、この楽しさを知ってほしい」など、メンバーが次々に発言。
また、新規に参加した連携企業からは「汚れた作業着も楽しく洗える洗濯方法の創出」(東邦)、「農作業と家事、育児を両立して豊かに暮らせる住まい」(東洋ハウジング)などのアイデアが発表された。
また、この日は、1年目の最後のプロジェクトお披露目にあたる、タニタとコーセーが協力して取り組んだ「農業女子ブリリアントボディー化計画」の成果発表も行われた。7月から3か月間、1日の総消費カロリーがわかる活動量計や体組成計による計測、食事や運動のアドバイスを行った結果、20人の候補者の中から松本知恵さん(群馬県藤岡市)、古沢昌子さん(栃木県塩谷町)、星野美樹さん(群馬県昭和村)が優秀者として選ばれた。
タニタでは「女性農業者は一般女性より筋肉量が平均1キログラム多く、おなか回り(体幹部)が引き締まっている。さらに意識した人がいい結果を出した。自己管理能力と継続性が農業女子から学ぶブリリアントボディーの秘訣(ひけつ)」としている。
このほかの連携企業は以下の通り。▽エイチ・アイ・エス(農業女子訪問ツアーなど)▽東急ハンズ(家庭菜園や野菜を使った加工品などのワークショップ)▽日本サブウェイ(野菜が喜ぶメニュー開発)▽モンベル(快適でファッショナブルな農業用作業衣)▽リーガロイヤルホテル東京(農業女子プロデュースの宿泊プランなど)▽サカタのタネ(野菜の魅力・楽しみ方の発信)▽丸山製作所(草刈り作業の応援)▽三越伊勢丹ホールディングス(マルシェ開催)▽(以下、新規参加)NHK出版(NHKテキストとの相互情報発信)▽シャープ(農作業小屋の職場環境改善)▽パソナ農援隊(未来の農業女子育成など)▽ローソン(農業女子の野菜・果物の店舗での展開)
昨年春、安倍政権が「女性の活躍」を言い出し、それを受けて急きょ始まったこのプロジェクト。近年流行の「女子」を使ったネーミング、企業が費用分担と引き換えに女性農業者のアイデアをタダで拝借する形、と、既存のお役所事業とは違った取り組みで進められてきた。農林水産省は、専ら情報交換の場所やきっかけの提供役を務めている。
1年前に担当者に質問した時は、「2年目以降がどうなるかはわかりません」と説明されたプロジェクトが、メンバーも参加企業も発足時より大幅に増やして2年目に入ったというのも、ある意味感慨深い。
連携企業は原則1業種1社で参加のため、プロジェクトの内容が他社と重なることなく展開でき、会社の新商品・サービスを役所のお墨付きでPRできる。女性農業者側はいろんな商品やサービスを試用できる。このWIN‐WINがうまく作用したようだが、一方で、「女性農業者自身でアイデアを生かす機会を奪っていないか」「チャラチャラして」などの批判も寄せられているようで、プロジェクト1年間の「成果」に関しては賛否両論の様相だ。
また、「農家の嫁」「子育て、介護との両立」「農家の経営」など、困難とされる既存の課題がこのプロジェクトで解決に向かったという話は今のところ聞こえてこない。
ただ、昨年11月、今年3月、今月、と計3回の「農業女子プロジェクト推進会議」の様子を取材で見てきた。そこには、農家の嫁であり、跡継ぎ娘であり、あるいは農業法人の被雇用者であり、と形は異なるものの、農業経営の立役者として堂々と発言する女性たちの姿があった。地方での類似の会合で、大半を世帯主、経営主の男性が占める会議を見てきた目には新鮮で、その女性版で何が悪いのか、という気がする。
また、企業側がこのプロジェクトに参画するのは、そこに、ニッチなビジネスチャンスがあると読んだからだろう。裏返せば、女性農業者のニーズ自体がこれまで汲(く)まれてこなかった。基幹的農業従事者の42%を占めるにもかかわらず、だ。特に母親になると自分のことは後回し、自分の健康を考え、きれいに磨く時間など作り出せないという農家の女性は少なくない。今回、そうした側面に日が当たったことは評価できる。
ちなみに、「2040年までに全国の市区町村の半分が消滅する」という報告書をまとめた増田寛也元総務相の近著「地方消滅」でも、必要な対策として農業における女性の役割の重要性に言及し、農業女子プロジェクトにも触れた上で、「農業経営や農村に変革をもたらす次世代リーダーとして、女性が活躍できる環境を整備すべき」としている。
また、プロジェクトでは、フェイスブックなどインターネット利用で、女性農業者同士のネットワークが広がった。東京を拠点に発進したプロジェクトだが、今度は地方を舞台に広がりそうな気配もある。今後も女性農業者たちが政府や企業の思惑とうまく渡り合い、自分たちの可能性を開いていくことを期待している。
(メディア局編集部 京極理恵)
アベノミクスの成長戦略の核である「女性の活躍推進」の一環。来年10月までの1年間で、現在、全国に128万人いる女性農業者の「生産力の拡大」「知恵の商品化」「『農業女子』新市場の創設」を狙う。
女性の農業就業人口は2012年度では128万4000人と全体の51%と占め、男性の割合を上回るが、その力が十分に生かされているとは言いがたい。
農業女子プロジェクトは、さらに一歩踏み込み、女性農業者が日々の生活や仕事、自然との関わりの中で培ってきた知恵を企業のビジネスチャンスと結びつけることで、新しい商品やサービス、情報を社会に広く発信しようというもの。
スタート時のメンバーは農水省が選定した、全国の20歳代から40歳代を中心とする37人。また、コラボする企業も9社に上った。
東京・霞が関の農水省で第1回プロジェクト推進会議が開催された6日は、11人の農業女子が参加した。顔ぶれはさまざまだ。
東日本大震災の被災地からの参加となった福島県二本松市の「きぼうのたねカンパニー」代表の菅野瑞穂さん(25)は、セパタクロー日本代表から農家の後継者に転じたスポーツ女子で、「原発事故後の福島の農業をなんとかしたい」と話す。また、女性だけの会社「山形ガールズ農場」(山形県村山市)社長の高橋菜穂子さんは、「農業していても、おしゃれ、お化粧、三食食べることは忘れません」と宣言した。
まったくの非農家出身から就農した女性も少なくなく、日比谷花壇、ABCクッキングスタジオ勤務を経て農業学校に入り、茨城県土浦市の農園「久松農園」の農場長となった伏見友季さん(34)は「疲れますが、とても楽しくてやりがいがある。企業とのコラボで新しいことをやりたい」と話していた。さらに、複数の女性から、「『農家の嫁』が物を言い出しにくい、昔ながらの雰囲気はやはり根強い」という声も出ていた。
一方、参加企業は個別プロジェクトの内容をアピール、「男性目線で行っていた商品開発を見直したい」「健康、美容などに農業女子らしい提案がほしい」などと話していた。
同プロジェクトでは、今後も農業女子、プロジェクト参加企業を追加募集し、ホームページなどによる情報発信や女子会などのイベントを開催していく。今後、農業女子メンバーが個別プロジェクトに参加し、アイデアを提案、これを受けた企業側が新たな商品やサービスを創出し、発表する予定だ。
林芳正農水大臣は「女性が持つ現場の知恵と企業の知恵が合流して新しい良いものが生み出されることを期待したい」と話していた。
スタート時点の参加企業とプロジェクトの内容は以下の通り。
井関農機(農業機械、栽培技術のサポート)▽エイチ・アイ・エス(農業女子訪問ツアーなど)▽コーセー(紫外線対策、汗や水に強い化粧品の開発)▽ダイハツ(魅力的な軽トラックの具現化)▽東急ハンズ(家庭菜園や野菜を使った加工品などのワークショップ開催)▽日本サブウェイ(野菜が喜ぶメニュー開発)▽モンベル(快適でファッショナブルな農業用作業衣の発信)▽リーガロイヤルホテル東京(農業女子プロデュースの宿泊プランなど)▽レンタルのニッケン(女性が使いたくなる仮設トイレの開発)。
「農業女子プロジェクト」
(メディア局編集部 京極理恵)
トヨタ自動車で、技術系として初の部長級の女性社員が誕生することになった。
19日、高級車ブランド「レクサス」の開発責任者、加古慈(かこ・ちか)主査を来年1月1日付で基幹職1級(部長級に相当)の「チーフエンジニア」に充てる人事を発表した。
加古氏は1989年入社。レクサスの小型車「CT200h」などの開発を担当してきた実績が評価された。事務系では基幹職1級の女性社員は2人いる。
<中学までは日本、高校からは米国で学ぶ>
米国で生まれ、3歳で来日しました。米国人の父とは英語で、日本人の母とは日本語での会話でした。中2の時、父が心臓病で突然亡くなりました。米国籍でしたが、父の死で自分と米国を結ぶ絆が切れると思い、姉がいたハワイの高校へ行く決心をしました。
ところが入学試験は落第点。人生初の挫折でした。特に英語の文法問題はほぼ白紙でした。ただ、日本で育ったことへの配慮から「仮入学」が認められました。1年後に学力が上がらなければ退学です。
家計が厳しいのに送り出してくれた母に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。寝る間も惜しんで必死に勉強し、正式に入学しました。米国の大学と大学院を経て、米国の弁護士資格を取りました。
<USTR首席交渉官として日本との交渉に臨む>
「日米の懸け橋になりたい」という志で、1990年に米国通商代表部(USTR)に就職しました。日米貿易摩擦が激化していた時です。1年後に日本部副部長へ昇格し、コンピューター分野の首席交渉官に任命されました。
米国にも縦割り行政が存在し、各省の反発で戦略作りが難航しました。議会幹部への説明の場では、上司のカーラ・ヒルズ代表から機関銃のように質問され、頭が真っ白になりました。当時29歳。米国政府を代表する仕事の厳しさを学びました。苦労を乗り越えた結果、日本との交渉には自信を持って臨めました。
私は半分日本人です。日米両国がウィンウィンになる道を探しました。ヒルズ代表には「日本の文献を読み込め」と指示されました。相手の立場で提案するためです。日本の主張が合理的な時は、政府内で「これ以上、プッシュしても仕方がない」と説得しました。反対する人には、「あなたは日本の文献を読んでいるのか。読めば理由がわかる」と、譲歩を求めました。
交渉は数か月後に決着しました。米国の上司だけでなく、日本の代表団の人も評価してくれました。両国を理解する自分の姿勢が生きたと思います。
<日本に根ざす外資系生保に>
95年にUSTR日本部長を退官し、米国の法律事務所で弁護士に。その後、99年にアフラック米国本社の法律顧問になり、2003年に日本支社(アメリカンファミリー生命保険)の社長に就任しました。
日本の保険業界が、横並びの行政指導による護送船団方式から、大幅な規制緩和による自己責任原則に変わる時代でした。がん保険や医療保険などの販売は、外資系や中小の生保だけだったのが、すべての生損保に認められるようになりました。激しい競争の中で成長を続けるために、人事制度や組織の改革に取り組みました。アフラックは今も、がん保険のシェア(市場占有率)で業界首位です。
日本郵政との提携を昨年、強化しました。がん保険を郵便局で販売したり、新たに開発したりします。全国2万の郵便局ネットワークを維持するため、最大限の努力をします。
アフラックは日本に根ざし、社員の9割以上は日本人です。私は父母に「日米の良い点を学び、実行する人になりなさい」と言われて育ちました。出来ることは何でもやりたいと思います。(聞き手 沢田享平)
《メモ》 アメリカンファミリー生命保険(アフラック)は米アフラックの日本支社。設立の1974年に日本初のがん保険を発売し、がん保険など医療保険分野で業界シェア(市場占有率)首位。2012年度末の保有契約件数は、日本の保険会社を含めて業界首位の2257万件。保険料等収入(売上高)は1兆9958億円、社員数は4037人。