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日米の懸け橋 実践

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日米の懸け橋 実践

 
  •   <中学までは日本、高校からは米国で学ぶ>

      米国で生まれ、3歳で来日しました。米国人の父とは英語で、日本人の母とは日本語での会話でした。中2の時、父が心臓病で突然亡くなりました。米国籍でしたが、父の死で自分と米国を結ぶ絆が切れると思い、姉がいたハワイの高校へ行く決心をしました。

      ところが入学試験は落第点。人生初の挫折でした。特に英語の文法問題はほぼ白紙でした。ただ、日本で育ったことへの配慮から「仮入学」が認められました。1年後に学力が上がらなければ退学です。

      家計が厳しいのに送り出してくれた母に申し訳ない気持ちでいっぱいでした。寝る間も惜しんで必死に勉強し、正式に入学しました。米国の大学と大学院を経て、米国の弁護士資格を取りました。
     

      <USTR首席交渉官として日本との交渉に臨む>

      「日米の懸け橋になりたい」という志で、1990年に米国通商代表部(USTR)に就職しました。日米貿易摩擦が激化していた時です。1年後に日本部副部長へ昇格し、コンピューター分野の首席交渉官に任命されました。

      米国にも縦割り行政が存在し、各省の反発で戦略作りが難航しました。議会幹部への説明の場では、上司のカーラ・ヒルズ代表から機関銃のように質問され、頭が真っ白になりました。当時29歳。米国政府を代表する仕事の厳しさを学びました。苦労を乗り越えた結果、日本との交渉には自信を持って臨めました。

      私は半分日本人です。日米両国がウィンウィンになる道を探しました。ヒルズ代表には「日本の文献を読み込め」と指示されました。相手の立場で提案するためです。日本の主張が合理的な時は、政府内で「これ以上、プッシュしても仕方がない」と説得しました。反対する人には、「あなたは日本の文献を読んでいるのか。読めば理由がわかる」と、譲歩を求めました。

      交渉は数か月後に決着しました。米国の上司だけでなく、日本の代表団の人も評価してくれました。両国を理解する自分の姿勢が生きたと思います。
     

      <日本に根ざす外資系生保に>

      95年にUSTR日本部長を退官し、米国の法律事務所で弁護士に。その後、99年にアフラック米国本社の法律顧問になり、2003年に日本支社(アメリカンファミリー生命保険)の社長に就任しました。

      日本の保険業界が、横並びの行政指導による護送船団方式から、大幅な規制緩和による自己責任原則に変わる時代でした。がん保険や医療保険などの販売は、外資系や中小の生保だけだったのが、すべての生損保に認められるようになりました。激しい競争の中で成長を続けるために、人事制度や組織の改革に取り組みました。アフラックは今も、がん保険のシェア(市場占有率)で業界首位です。

      日本郵政との提携を昨年、強化しました。がん保険を郵便局で販売したり、新たに開発したりします。全国2万の郵便局ネットワークを維持するため、最大限の努力をします。

      アフラックは日本に根ざし、社員の9割以上は日本人です。私は父母に「日米の良い点を学び、実行する人になりなさい」と言われて育ちました。出来ることは何でもやりたいと思います。(聞き手 沢田享平)
     

      《メモ》 アメリカンファミリー生命保険(アフラック)は米アフラックの日本支社。設立の1974年に日本初のがん保険を発売し、がん保険など医療保険分野で業界シェア(市場占有率)首位。2012年度末の保有契約件数は、日本の保険会社を含めて業界首位の2257万件。保険料等収入(売上高)は1兆9958億円、社員数は4037人。

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