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太陽電池で復興に貢献

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太陽電池で復興に貢献

 

玉井裕人 56 ソーラーフロンティア社長

 

 <昔ながらの現場>

  • ソーラーパネルの模型を手にするソーラーフロンティアの玉井裕人社長(18日、東京都港区で)=佐々木紀明撮影
  •   大学は機械工学科で、エネルギー分野の研究をしていました。昭和石油(現昭和シェル石油)に入社したのは1980年で、第2次石油危機の直後でした。

      初任地は川崎製油所(川崎市)。最初の1年間は装置の運転と設備の点検、修繕を交代勤務で担当しました。約400人が働いていて、大卒は20人程度。「大卒」の肩書に意味はなく、職人かたぎの昔ながらの職場でした。

      仲間の信頼を得ることが大切でした。ボイラー技師などの資格も必要です。現場を仕切る「組長」と呼ばれる上司からは、「試験に落ちたら、バカにされる。絶対に落ちるな」と叱咤(しった)激励されました。資格を取り続けたのも、実績を重ねて職場の一員になるためでした。

      2年目からは製油所の運転を指導する部署に移りました。設備の稼働率向上などを提案する仕事ですが、ベテランの職人たちに叱られながらの日々でした。

      80年代後半、製油所にガスタービンを用いた発電機を設置するプロジェクトを任されました。製油所では大量の電気を使います。これをほぼ自給するのですが、当時では珍しい試みでした。

      当時のガスタービンは不具合で止まることも多く、自家発電への不安も根強かったのです。それでも製油所の将来には絶対に必要です、と説き続けました。結果は安い電力の調達につながり、成功でした。努力をすれば成果はついてくる。「玉井の話なら、聞いてやる」と職場の反応も変わりました。

      発電機の銘板は今も社長室に掲げています。製油所は2011年に解体されたのですが、「持っていてほしい」と届けてくれたのです。当時の仕事を覚えていてくれたことにうれしさがこみ上げました。

      製油所には12年間在籍しました。異例の長さです。

      

     <決断を迫られる>

      95~97年にオランダのロイヤル・ダッチ・シェルの本部に出向し、帰国後は石油製品の生産計画、電力事業などを経験しました。

      川崎製油所の閉鎖を決めたのは2010年です。経営企画担当の常務でした。国内の需要減が想定されていました。現場の危機感は分かっていました。それだけに、自分の決断の重みに押しつぶされそうになりました。

      「お前がだらしなくてどうする。しっかりしろ」。入社した時の最初の上司だった「組長」の言葉がよぎりました。閉鎖は私の仕事だ、と決意しました。

      

     <新分野にかける>

      13年3月にソーラーフロンティアの社長に就きました。太陽電池で稼げるのか。親会社の昭和シェル社内もかつては不安視していましたが、今や時代は変わりました。原子力発電所の稼働停止で電力は不足しており、太陽光発電はエネルギーの地産地消を進める切り札になる。被災した宮城県で太陽電池工場の建設を進めています。

      震災からの復興やエネルギー供給の多様化を通じて社会貢献する。社員一人一人が誇りを持って働ける。そういう会社にすることが私の仕事です。(聞き手 米沢知史)

     

      《メモ》 国内大手の太陽電池メーカーで、昭和シェルの完全子会社。1970年代から太陽電池の研究を進めてきた。2006年に母体となる昭和シェルソーラーが設立され、10年に現在の社名に。宮崎県内に三つの太陽電池の生産拠点を持ち、生産能力は出力換算で年間約1000メガ・ワット。宮城県では15年3月末までの稼働を目指す新工場が建設中だ。昨夏には、世界で最も軽い一戸建て用の太陽光パネルを開発し、販売している。本社・東京都。

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