社会そのほか速
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北越銀行(本店・新潟県長岡市)は長岡市山古志地域の養鯉業者に対し、ニシキゴイを担保にした融資を始めた。
土地や建物などの不動産でなく、事業者が持つ商品や売掛金などの動産を対象とした「動産担保融資(ABL)」という手法で、同行によると、ニシキゴイを担保とするのは全国的にも珍しいという。
昨年10月に同行と市が結んだ「地域密着型包括連携協定」の一環で、地場産業の発展を目的にしている。
山間部にある山古志地域は、土地や建物を担保とした資金調達には不利な状況にある。また、養鯉業者は2004年の中越地震で壊滅的な被害に遭い、事業再開のために資金を借りているケースも少なくない。そのため、同行はニシキゴイそのものの価値に着目し、ABLの採用で復興を後押しすることを決めた。
同行では、コメや日本酒などを担保とした融資を行った実績がある。担当者は「地場産業の発展のため、顧客のニーズにあった形の融資を積極的にしていきたい」と説明。ニシキゴイを担保とした融資では、事業規模や経営状況、品評会での受賞成績などを考慮して融資枠を設定するという。
今回、融資契約を締結したのは同市山古志虫亀の「丸重養鯉場」(田中重雄代表)。中越地震で5棟あった養鯉施設が全半壊し、約50か所あった養鯉池は全て崩れ、ニシキゴイも大量に死んだ。地震から10年が経過し、生産量は地震前の水準に戻ったが、事業再開時の借金など、ダメージは完全には癒えていない。
同養鯉場は現在、売り上げの9割を海外の顧客が占めている。欧米にとどまらず、さらに新たな販路拡大を模索していた同養鯉場にとって、ニシキゴイを担保とした融資は朗報だという。
田中代表(60)は「ニシキゴイの価値が認められ、大変うれしい。まだ浸透していないインドや中東など、さらなる海外進出に役立てたい」と話している。
大手予備校・代々木ゼミナール(東京都)が来春、校舎の多くを閉鎖する。
少子化による影響で、大手予備校と進学塾などは系列化が進み、異分野への進出も目立つ。大きく変化している受験産業を追う。
1人用のブースに置かれたパソコンの画面で、代ゼミの人気講師が日本史を解説している。生徒がその講義をイヤホンで聴きながら、ノートにペンを走らせる。仕切りの向こうでは、別の生徒が数学の問題を解く。
10月上旬、横浜市の学習塾・国大Qゼミ。代ゼミを運営する学校法人・高宮学園と2000年に業務提携し、「代ゼミサテライン予備校」を兼ねる。代ゼミの本部校の教室で実際に行われた授業の映像を、大学現役合格を目指す高校生らに提供する。
高3の男子生徒は「映像授業はおもしろくて分かりやすい。大教室の授業と違って、自分のペースで学べる」。生徒は進度に応じて映像を止めたり、繰り返し見たりすることができる。
代ゼミは8月下旬、全国27校のうち20校を来春閉鎖すると発表した。一方、塾などと提携した約400のサテライン予備校は拡充する考えで、9月以降、塾側への説明会で閉鎖地区に開校する場合、契約金不要などの優遇策を説明。また、09年から10年にかけて傘下に収めた大手進学塾・SAPIX(サピックス)で小学生からの指導にも力を入れる方向で、大学現役合格での実績を目指すとみられる。
神奈川県内に14校ある国大Qゼミの高等部責任者、鈴木賢さん(34)は「生徒の志望に合わせて効率よく教えられる」と話し、サテライン予備校の増設を検討中だ。一方、別の塾経営者は「代ゼミは今年度から大学入試センター試験の結果分析をやめ、来春から全国模試も廃止する。大規模なデータに基づく進路指導で信頼を得てきたのに、これでは受験生が他の予備校や塾に流れてしまう」と心配する。
現役高校生らを対象に授業を映像配信する手法で成功したのが、大手予備校・東進ハイスクール(東京都)だ。代ゼミ、駿台予備学校(同)、河合塾(名古屋市)の「3大予備校」より後発組だったが、全国の学習塾などに配信し、急成長した。高まる現役志向を受け、代ゼミ関係者は「浪人生と違って現役生は高校生活で忙しく、代ゼミが得意な都心の大教室での一斉授業より、近くの塾での個別少人数授業が求められた」と語る。
さらに、東進ハイスクールを運営するナガセは06年、有名私立中学への高い進学実績を誇る四谷大塚を買収。以後、予備校が小学生から受験生を囲い込む動きが広がった。
河合塾は08年、中学受験で定評のある日能研(横浜市)と合弁会社「日能研東海」を設立し、愛知県などで中学受験塾9教室を運営する。駿台予備学校を運営する駿河台学園は昨秋、最難関の灘中学(神戸市)の合格者数で全国最多の浜学園(兵庫県西宮市)と共同で、中学受験塾「駿台・浜学園」を開校。小1から教え、12月に3教室目を東京・吉祥寺に開校する。駿台は「ノウハウを集約し、圧倒的な存在感を目指す」とする。
予備校といえば主に大学受験に向けて浪人生らが通い、塾は小中高生の補習や受験対策をする――。少子化で受験生の奪い合いが激しくなる中、その境界はなくなりつつある。
予備校や塾の経営は厳しさを増している。代ゼミ以外にも、秀英予備校(静岡市)が来年3月、全国254校のうち17校を閉鎖・統合すると発表した。矢野経済研究所によると、2013年度の学習塾・予備校市場は前年度比0.2%減の9360億円。4年ぶりに縮小した。
少子化で国公私立大学の志願者数は減少したのに、大学の入学定員は逆に増加。同研究所は「一部の難関大学を目指す受験層以外は、競争原理が低下している」として、今後、市場全体がゆるやかに縮小すると予測する。
東京商工リサーチが、全国で予備校・学習塾を経営する321の企業・団体(高宮学園、駿河台学園は非公表のため含まれない)の最新の業績(1年間)を調べたところ、売上高別で100億円以上はトップの河合塾(492億円)、5位のナガセ(256億円)など16法人で、売上高は計3320億円と全体の6割を占め、大手の寡占化が顕著だった。赤字企業は58社で、全体の約2割に及んだ。
東京商工リサーチ情報本部は「大手を中心に丁寧な個別指導のサービス、指導方法などの競争が激化し、さらに再編、淘汰(とうた)が進む可能性が高い」と分析する。
仏塔を連想させる冠やきらびやかな衣装を身に着けて、優雅に体をくねらすタイ舞踊。最近は習う子どもの数が減り、関係者は伝統を継承していけるか、危機感を募らせている。
「首を左に倒して。あごは引いて……」。首都・バンコク市の住宅街にある「カモンコン舞踊学校」の稽古場で、パチャラ・クンチョンナアユタナさん(60)が一人一人に声を掛けていく。伝統音楽の調べに合わせて、子どもたちは指先を反らし、首や足を滑らかに動かしながら舞う。小学生のコブア・セナナロンさん(8)は「難しいポーズを決められた時はうれしい」と息を弾ませた。
同校は1987年に開校した民間教室。練習は土、日曜に行われ、5歳児から高校生まで55人が通う。2007年に同校は日本に招かれ、東京・銀座の泰明小学校で踊りを披露した。パチャラさんは「舞踊を習えば、身体能力が向上し、情緒が安定する。群舞を通じて協調性も養われる」と力説する。
1990年頃、人気映画でタイ舞踊が取り上げられてブームとなり、同校の生徒は200人を超えた。しかし、韓流など軽快な外国のダンスの人気が高まり、生徒数が減少した。さらに、受験競争の激化が追い打ちをかける。同校で娘の稽古姿に目を細めていた母親は「いずれ踊りをやめて学習塾に通わせないといけないのかな」と顔を曇らせた。
タイ舞踊は小中学校でも選択科目として習えるが、2013年、これが廃止になると一部メディアが報じた。12年の国際学習到達度調査(PISA)で、タイは数学的応用力などで65か国・地域中50位前後と低迷。政府は数学や理科の授業を増やすため、芸術系選択科目を圧縮しようとしている、というのだ。
文化人らが反発した結果、教育相が「タイ舞踊を選択科目から外さない」と明言し、騒動は収まった。だが、舞踊家で国立ラムカムヘン大学専任講師のタマチャック・プロンパイさん(36)は「学校でタイ舞踊を教えられる資格を取る大学生は年間3000人を下回る。若者は自国文化を学ぼうとしない」と、将来指導者が不足する恐れを指摘する。タイ舞踊の前途は多難なようだ。(バンコク 永田和男)
子どもの頃、絵は得意でしたが、勉強はあんまり。そんな私をおおらかに認めてくれた両親がいたから、今の私があるのでしょう。
実家は、千葉・館山の商家でした。父はハイカラな人で、趣味でオートバイに乗ったり、猟をしたり。いつもさっそうとしていましたね。父のしっぽみたいに付いて回っていたのは、6人姉妹で私だけ。厳しいことを言わない父でしたが、「いつも学ぶ気持ちで人に接すると心を開いてくれる」と教えられました。
地元の中学、高校に進みましたが、身につけるものにはこだわりました。皆は紺色のカバンなのに、「真っ赤なカバンがかわいい」と父にせがんで買ってもらって。紺の制服も、「黒の方がシックでは」と思い、洋服店で作ってもらいました。目立ちたいというより、自分が好きなスタイルを勝手にしてしまう。そんな私を母も注意せず、「すてきね」と笑っていました。
卒業後は絵の学校に行きたかったのですが、「何か手に職を」と母に勧められ、洋裁を学ぶ東京のドレスメーカー女学院(当時)へ。ただ、ここでも授業に熱が入らず、フランス映画ばかり見ていました。
私が本当に勉強したのは20歳代半ばで渡仏し、ファッションの仕事に携わってから。デザイナー集団の事務所に所属し、「プロになりたい」と懸命に学んだ。そこが私の「学校」となりました。今も、パリを拠点に活動を続けています。
進む道が定まらず、好きなものにこだわった学生時代は、その後の人生の「栄養」をつくる期間でした。開放的な両親が大きな心で見守ってくれたから、できたことだと思います。(聞き手・名倉透浩)
(2014年5月8日付読売新聞朝刊掲載)
東京都中央区役所の職員だった父と専業主婦の母の共通の趣味が園芸でした。
高校生の頃まで過ごした練馬区の家は、狭い借家だったのですが、ツツジやアジサイ、ボタンなど四季折々の花が咲く庭があり、私も両親の影響で物心ついた頃から、花壇に種をまいたり、球根を植えたりする園芸少年でした。
練馬区立光和小学校1年生の時、庭先でバラが咲いたのを見つけました。「お母さん、バラの花が咲いた」と伝えると、母はその花をチョキンと切り新聞紙にクルクルクルって巻いて「学校の先生に渡しなさい」と言うんです。先生は一輪挿しに挿して教壇に飾ってくれました。そしたら、まだ朝で眠たげにしていた級友たちの目が輝き、ため息をついて、美しさに見とれたような表情になったんです。美しさが人を動かすということに気づかされました。
変わった子どもだったと思いますよ。サッカーや野球に興味はなく、男の子が好きそうなテレビアニメも見ませんでした。それより、花壇の世話や料理、楽器のお稽古など、やりたいことが山のようにあって、スケジュールがいっぱいでした。
だから、友達が放課後、野球をしようと家に誘いに来ても居留守を使うんです。興味がないことをする時間がもったいなかった。人は人、自分は自分なんだという意識がすごくありました。そんな私を見て、母は「好きなことをおやんなさい」と応援してくれました。
生け花を始めて、昨年で30周年を迎えました。好きなことを仕事にできるのはとても幸せなことです。好きなものを、納得いくよう作り続ける。その原体験が子ども時代の庭にあります。(聞き手・山田睦子)
(2014年6月26日付読売新聞朝刊掲載)