社会そのほか速
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子どもの頃、絵は得意でしたが、勉強はあんまり。そんな私をおおらかに認めてくれた両親がいたから、今の私があるのでしょう。
実家は、千葉・館山の商家でした。父はハイカラな人で、趣味でオートバイに乗ったり、猟をしたり。いつもさっそうとしていましたね。父のしっぽみたいに付いて回っていたのは、6人姉妹で私だけ。厳しいことを言わない父でしたが、「いつも学ぶ気持ちで人に接すると心を開いてくれる」と教えられました。
地元の中学、高校に進みましたが、身につけるものにはこだわりました。皆は紺色のカバンなのに、「真っ赤なカバンがかわいい」と父にせがんで買ってもらって。紺の制服も、「黒の方がシックでは」と思い、洋服店で作ってもらいました。目立ちたいというより、自分が好きなスタイルを勝手にしてしまう。そんな私を母も注意せず、「すてきね」と笑っていました。
卒業後は絵の学校に行きたかったのですが、「何か手に職を」と母に勧められ、洋裁を学ぶ東京のドレスメーカー女学院(当時)へ。ただ、ここでも授業に熱が入らず、フランス映画ばかり見ていました。
私が本当に勉強したのは20歳代半ばで渡仏し、ファッションの仕事に携わってから。デザイナー集団の事務所に所属し、「プロになりたい」と懸命に学んだ。そこが私の「学校」となりました。今も、パリを拠点に活動を続けています。
進む道が定まらず、好きなものにこだわった学生時代は、その後の人生の「栄養」をつくる期間でした。開放的な両親が大きな心で見守ってくれたから、できたことだと思います。(聞き手・名倉透浩)
(2014年5月8日付読売新聞朝刊掲載)