社会そのほか速
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アベノミクスの成長戦略の核である「女性の活躍推進」の一環。来年10月までの1年間で、現在、全国に128万人いる女性農業者の「生産力の拡大」「知恵の商品化」「『農業女子』新市場の創設」を狙う。
女性の農業就業人口は2012年度では128万4000人と全体の51%と占め、男性の割合を上回るが、その力が十分に生かされているとは言いがたい。
農業女子プロジェクトは、さらに一歩踏み込み、女性農業者が日々の生活や仕事、自然との関わりの中で培ってきた知恵を企業のビジネスチャンスと結びつけることで、新しい商品やサービス、情報を社会に広く発信しようというもの。
スタート時のメンバーは農水省が選定した、全国の20歳代から40歳代を中心とする37人。また、コラボする企業も9社に上った。
東京・霞が関の農水省で第1回プロジェクト推進会議が開催された6日は、11人の農業女子が参加した。顔ぶれはさまざまだ。
東日本大震災の被災地からの参加となった福島県二本松市の「きぼうのたねカンパニー」代表の菅野瑞穂さん(25)は、セパタクロー日本代表から農家の後継者に転じたスポーツ女子で、「原発事故後の福島の農業をなんとかしたい」と話す。また、女性だけの会社「山形ガールズ農場」(山形県村山市)社長の高橋菜穂子さんは、「農業していても、おしゃれ、お化粧、三食食べることは忘れません」と宣言した。
まったくの非農家出身から就農した女性も少なくなく、日比谷花壇、ABCクッキングスタジオ勤務を経て農業学校に入り、茨城県土浦市の農園「久松農園」の農場長となった伏見友季さん(34)は「疲れますが、とても楽しくてやりがいがある。企業とのコラボで新しいことをやりたい」と話していた。さらに、複数の女性から、「『農家の嫁』が物を言い出しにくい、昔ながらの雰囲気はやはり根強い」という声も出ていた。
一方、参加企業は個別プロジェクトの内容をアピール、「男性目線で行っていた商品開発を見直したい」「健康、美容などに農業女子らしい提案がほしい」などと話していた。
同プロジェクトでは、今後も農業女子、プロジェクト参加企業を追加募集し、ホームページなどによる情報発信や女子会などのイベントを開催していく。今後、農業女子メンバーが個別プロジェクトに参加し、アイデアを提案、これを受けた企業側が新たな商品やサービスを創出し、発表する予定だ。
林芳正農水大臣は「女性が持つ現場の知恵と企業の知恵が合流して新しい良いものが生み出されることを期待したい」と話していた。
スタート時点の参加企業とプロジェクトの内容は以下の通り。
井関農機(農業機械、栽培技術のサポート)▽エイチ・アイ・エス(農業女子訪問ツアーなど)▽コーセー(紫外線対策、汗や水に強い化粧品の開発)▽ダイハツ(魅力的な軽トラックの具現化)▽東急ハンズ(家庭菜園や野菜を使った加工品などのワークショップ開催)▽日本サブウェイ(野菜が喜ぶメニュー開発)▽モンベル(快適でファッショナブルな農業用作業衣の発信)▽リーガロイヤルホテル東京(農業女子プロデュースの宿泊プランなど)▽レンタルのニッケン(女性が使いたくなる仮設トイレの開発)。
「農業女子プロジェクト」
(メディア局編集部 京極理恵)
全日空の元客室乗務員で、同社初の女性支店長も務めた山脇彰子さん(62)が、6月に鳥取銀行(本店・鳥取市)の取締役に就任し、奮闘している。
創立65年の歴史を誇る同行でも女性の起用は初。活躍の場を切り開いてきた原動力、今後の目標などを聞いた。
――航空会社からの転身。何を心がけていますか。
「お客様に愛され、信頼される銀行づくりを、おもてなしの観点から進めることです。客室乗務員の経験を生かせると思います。銀行の利用者としての率直な思い、外からの視点も大切にしています。私が初の女性取締役というのは、遅れています。女性が活躍し続けられる環境作りにも努めたいと思っています」
――どんな取り組みをしていますか。
「取締役に就く1年ほど前に鳥取銀行と嘱託契約を結び、接客の研修を行ったり、県内の支店を視察したりしてきました。日経新聞などの調査で2012年の銀行サービスランキングが全国117行中115位だったことを知り、衝撃を受けました。サービスは企業の規模に関係なく高められます。あいさつや電話応対など接客の常識を『とりぎんスタンダード』としてまとめて徹底し、今年は34位に上昇しました」
――全日空時代の経験で印象に残っていることは。
「VIP接遇担当マネジャーとして元首相や企業の社長に対応しました。トップに立つ人は謙虚で感謝を忘れない方ばかり。どんなに地位や名誉のある人が相手でも、人と人が向き合うことに変わりはありません。『山脇がいるから空港に行こう』と思ってもらえるよう努力してきました」
――管理職も経験されていますね。
「客室乗務員の現場から離れるのはつらかったですが、新たな活躍の道を自分が作るのだと考え、気持ちを切り替えました。女性に任せたことが失敗だったと言われるのは絶対に嫌だった。私に続く後輩のためにもやり遂げようと思いました」
――第2次安倍内閣でも女性の活躍がテーマとなっています。
「数を増やすだけでは意味がなく、実力のある女性が能力に応じたポストに就くことが大切。単に『女性だから』と起用するのではなく、性別も多様性の一つとして、いかに個性を生かすかを考えるべきです。私は仕事一筋の人生を選びましたが、出産や育児と仕事を両立させることは、人生を充実させると思います。一生自分磨きができる環境と雰囲気を作るのが企業の役割。男性の育児休暇取得者も増やしたい」
――行員に伝えたいことは。
「『この人がいるから窓口に行こう』と思ってもらえる行員を目指してほしい。そして、たくさんの『ありがとう』を聞いてほしい。相手を心から思いやることで、自ら行動できるようになると信じています」
メモ 鳥取市出身。1972年に全日空に入社し、客室乗務員として活躍。2007年に横浜支店で同社初の女性支店長となる。11年11月に定年退職。現在は、鳥取短期大学の非常勤講師も務め、コミュニケーション論やビジネス実務演習を担当。身ぶりや表情も交えて意思疎通を円滑に行う方法や、電話応対、資料整理など仕事上の基本技術を指導している。(古賀愛子)
奈良女子大(奈良市)とお茶の水女子大(東京都文京区)は、女子大としては全国初の工学系修士・博士課程となる「生活工学共同専攻」(仮称)を2016年度、共同で大学院に設ける。
国立女子大のライバル同士だが、女性が少ない工学分野の人材育成を目指した初の連携。それぞれの付属中学、高校でも、数学や物理の授業を充実させるなどして、優秀な「理工系女子」を送り出す計画だ。
生活工学は、家政学と工学を融合させる。女性の視点を盛り込み、掃除ロボットのような日常生活に役立つ商品の開発を目指す。
奈良女子大は人間文化研究科に、お茶の水女子大は人間文化創成科学研究科に、それぞれ新設し、学位は両大の連名となる。定員は修士課程(2年)が14人、博士課程(3年)が4人の予定。両方の大学の教員が分担して受け持ち、講義をネット中継することで、どちらの大学でも同じように学ぶことができるという。
<子連れで仕入れに>
子どもの頃から親戚の土産物屋を手伝っていました。百貨店に就職したのは接客が好きだったから。入社3年目には、百貨店とは別に新たな専門店を作る準備室に出向しました。店名や仕入れ先の開拓も任されました。衣料品店を回り、商品を買い付けて売る仕事です。
長女を出産したのはこの頃です。閉店後や休日に仕入れに出る時は、子供をおぶって、です。取引先はすぐ顔を覚えてくれました。社長室でおむつを替えたり、昼寝をさせてくれたり。おんぶ紐(ひも)姿だから「バッテン肥塚」と呼ばれたこともあります。
専門店は仕入れた商品を返品できません。数千万円の在庫を抱えたこともあります。お客様が欲しいものを選び、買ってもらう商売の難しさを学びました。
<退社、そして復職>
2人目の娘を出産後、子育てを手伝ってくれていた母が入院しました。当時は育休期間も短く、時間外保育の制度も不十分でした。上司は早退を認めてくれたのですが、母の看病と娘2人の育児に追われ、妹から「仕事を辞めれば」と言われました。疲れ果てていた頃、夫に家族同伴が条件の米国留学の話が来ました。いいかげんに辞めなさい。神様が言っているんだ、と思いました。
退社を申し出ました。ところが、上司が「再雇用制度ができる」と言います。やはり、辞めたくない。帰国後に復帰すると決めて渡米しました。
子育てとの両立には悩みました。「なぜママは家にいないの」。小学生の娘に聞かれた時は辞めようか、と迷いがよぎりました。踏みとどまったのは渡米前に自分の気持ちを知ったからです。
職場に戻ったのは1年8か月後、高島屋の再雇用制度の第1号でした。40歳代で新宿店の下着売り場のマネジャーになった時は、年下の部下に朝礼の手順から売り上げ管理の方法まで習いました。こんなことも知らないの、と言われたこともあります。でも、心の中では、一度辞めているので遅れたのは当たり前、と開き直りました。
<プロを育てる>
赤字だった岡山高島屋(岡山市)の社長になったのは2010年。最初に始めたのは、あいさつの励行と清掃の徹底です。お金はかからないけど、仕事の基本です。厳しい労使交渉も経験しました。共同出資してくれていた地元企業の経営者からは「嫌なことはトップが決めるべきだ」と言われ、賞与カットにも踏み切りました。
一度失敗しても必ず成長できる。そう皆に言い続けながら、店舗を改装しました。従業員も接客や品ぞろえの改善策を考えてくれました。朝市やイベントなどの仕掛けを増やし、岡山高島屋の営業利益は12年2月期に4年ぶりで黒字になりました。
東京に戻り、今年2月から販売戦略などを担当しています。さみしい思いをさせてきた娘たちは、昇格した時に「よかったね」と。仕事を続けてきてよかったと思いました。小売業界の競争は厳しいですが、百貨店ならではの文化や生活様式の提案もできるはず。プロを育てることが今の目標です。(聞き手 沼尻知子)
◇
《メモ》 1831年に京都で古着木綿商として創業。国内18店、海外3店を構える。従業員数は1万5210人(2月末現在、契約社員含む)。2014年2月期の連結売上高は9041億円で、国内百貨店で3位。ショッピングセンター運営の子会社を持ち、不動産事業も積極展開する。日本橋店は国の重要文化財に指定されている。肥塚氏は13年9月に大手百貨店の生え抜きの女性としては初めて、代表権を持つ専務取締役に就任した。
<集団就職で上京>
15歳の春、福島県飯舘(いいたて)村から集団就職で東京に出てきました。
常磐線の車窓から見た利根川や荒川の川幅の広いこと。山に囲まれた故郷の風景との違いに驚きました。
就職先は、職業安定所で探したカメラ関係の試作会社。メーカーの新製品の試作品や部品を作る仕事です。金属を削って加工する旋盤などの技術を先輩の職人から学びました。
社長の後押しもあり、26歳で独立しました。東京・八王子に妻と2人で借りた小屋に中古の機械を置き、試作の仕事を始めたのです。
<過疎地に工場>
故郷・飯舘村に工場を作ったのは41歳の時。それまで「いずれ村に工場を作る」と言って故郷の若者を八王子で採用してきました。彼らを郷里に帰すことができるようになり、約束を果たした思いでした。
過疎が進む飯舘では、農業以外に就職先といったら役場や農協、郵便局くらい。地元の人が先祖伝来の田畑を守りながら働ける場所を作りたいと思っていました。
会社にとっても、そうした環境なら社員が辞めることなく、時間をかけてじっくりと技術を習得し、「匠(たくみ)の技」を身に付けられます。
<3年間で100人退社>
2011年3月11日、東日本大震災が発生。東京電力福島第一原子力発電所の事故で、飯舘村は「計画的避難区域」に。工場の近くに暮らしていた多くの社員が、福島市での避難生活を余儀なくされました。
工場の被害は軽微で操業は認められたので、彼らは往復3~4時間かけて飯舘に通勤する日々が始まったのです。
当時、飯舘工場には約300人が働いていました。しかし、避難生活が2年ほどたった頃からです。彼らは徐々に会社を辞めていきました。幼い子供がいる社員も多く、家族の意向もあって仕事を含めた生活基盤を避難先に移すことにしたのだと思います。
結局、3年間で約100人が去りました。我々は「匠の技」が第一。時間をかけて育てた人たちが出ていくのは身を切られるのと一緒。会社にとって大きな痛手です。でも、それぞれ事情のある彼らに、私も幹部も「辞めるな」とは言えない。退社の理由は尋ねず、黙って耐えるしかありませんでした。
その後、新たに採用をして社員の数は元に戻りました。しかし、技術力にはやはり影響が出ます。新しく入ってきた人たちは一から技術を身に付けるわけですから当然です。
<夢のある仕事を>
若い社員たちに、将来性と夢のある仕事をさせたい。今、ロボット事業に力を入れています。人が身に着けて、ものを持ち上げるのを助ける「マッスルスーツ」は老人介護施設などに販売していきます。福島県南相馬市で、大学と連携してロボットを開発・生産する工場を作る計画もあります。社員には「ロボットの匠」になってもらいたいと考えています。(聞き手 浅子崇)
◇
《メモ》 1970年に東京都八王子市で事業を始め、76年に株式会社化した。従業員は約400人。カメラや携帯電話、複合機などの製品の試作や生産などを手がける。2011年にジャスダック市場に上場。介護現場で使うロボットなどの開発も行い、菊池社長は政府の「ロボット革命実現会議」の委員も務める。14年4月期の連結売上高は55億円。