社会そのほか速
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<子連れで仕入れに>
子どもの頃から親戚の土産物屋を手伝っていました。百貨店に就職したのは接客が好きだったから。入社3年目には、百貨店とは別に新たな専門店を作る準備室に出向しました。店名や仕入れ先の開拓も任されました。衣料品店を回り、商品を買い付けて売る仕事です。
長女を出産したのはこの頃です。閉店後や休日に仕入れに出る時は、子供をおぶって、です。取引先はすぐ顔を覚えてくれました。社長室でおむつを替えたり、昼寝をさせてくれたり。おんぶ紐(ひも)姿だから「バッテン肥塚」と呼ばれたこともあります。
専門店は仕入れた商品を返品できません。数千万円の在庫を抱えたこともあります。お客様が欲しいものを選び、買ってもらう商売の難しさを学びました。
<退社、そして復職>
2人目の娘を出産後、子育てを手伝ってくれていた母が入院しました。当時は育休期間も短く、時間外保育の制度も不十分でした。上司は早退を認めてくれたのですが、母の看病と娘2人の育児に追われ、妹から「仕事を辞めれば」と言われました。疲れ果てていた頃、夫に家族同伴が条件の米国留学の話が来ました。いいかげんに辞めなさい。神様が言っているんだ、と思いました。
退社を申し出ました。ところが、上司が「再雇用制度ができる」と言います。やはり、辞めたくない。帰国後に復帰すると決めて渡米しました。
子育てとの両立には悩みました。「なぜママは家にいないの」。小学生の娘に聞かれた時は辞めようか、と迷いがよぎりました。踏みとどまったのは渡米前に自分の気持ちを知ったからです。
職場に戻ったのは1年8か月後、高島屋の再雇用制度の第1号でした。40歳代で新宿店の下着売り場のマネジャーになった時は、年下の部下に朝礼の手順から売り上げ管理の方法まで習いました。こんなことも知らないの、と言われたこともあります。でも、心の中では、一度辞めているので遅れたのは当たり前、と開き直りました。
<プロを育てる>
赤字だった岡山高島屋(岡山市)の社長になったのは2010年。最初に始めたのは、あいさつの励行と清掃の徹底です。お金はかからないけど、仕事の基本です。厳しい労使交渉も経験しました。共同出資してくれていた地元企業の経営者からは「嫌なことはトップが決めるべきだ」と言われ、賞与カットにも踏み切りました。
一度失敗しても必ず成長できる。そう皆に言い続けながら、店舗を改装しました。従業員も接客や品ぞろえの改善策を考えてくれました。朝市やイベントなどの仕掛けを増やし、岡山高島屋の営業利益は12年2月期に4年ぶりで黒字になりました。
東京に戻り、今年2月から販売戦略などを担当しています。さみしい思いをさせてきた娘たちは、昇格した時に「よかったね」と。仕事を続けてきてよかったと思いました。小売業界の競争は厳しいですが、百貨店ならではの文化や生活様式の提案もできるはず。プロを育てることが今の目標です。(聞き手 沼尻知子)
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《メモ》 1831年に京都で古着木綿商として創業。国内18店、海外3店を構える。従業員数は1万5210人(2月末現在、契約社員含む)。2014年2月期の連結売上高は9041億円で、国内百貨店で3位。ショッピングセンター運営の子会社を持ち、不動産事業も積極展開する。日本橋店は国の重要文化財に指定されている。肥塚氏は13年9月に大手百貨店の生え抜きの女性としては初めて、代表権を持つ専務取締役に就任した。