社会そのほか速
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
今回は準備段階での「オフィス」をどうするかについて述べる。
最初は、オフィスなんていらない。
オフィスを借りれば、当然、家賃や維持費が発生する。そこにお金をかけてしまうのは、はっきりいって無駄である。
前回まで取り上げた「人編」でも、しつこく述べたように、最初はとにかく固定費をかけないのが起業の鉄則。なにせ、準備中の今、サービスでまだ1円も稼げているわけではないのだから。
だから、仕事は極端な話、「スターバックスでやれ!」。
もちろん「スターバックス」はあくまでも例だが、サービスインしてお金がまわるようになるまでは、コーヒーチェーン店やカフェで、朝から晩までコーヒー1杯で粘るくらいのスタイルがいいと思う。
僕も実際、準備段階では、東京・大崎のスターバックスにパソコンを持ち込んで、朝8時から夜10時くらいまで仕事をしていた。僕一人どころか、学生インターンも隣に座らせて……。さらには、人との打ち合わせもそこ。スターバックスの一角がマイオフィスになっていたわけだ。今も大崎のスターバックスに足を向けて寝ないように気をつけている。
自宅でも集中できるタイプの人であれば、自宅をオフィスにしてもいいだろう。要は「お金をあまりかけずに、自分にとってテンションが上がる場所をオフィスに選ぼう」ということ(僕の場合は、自宅だと煮詰まりやすいし、かつダラダラしてしまいがちなので、あえて外を選んだ)。
また、仕事場をどこにするかでは、学生インターンや社会人プロボノとのミーティングがしやすいことも考慮する必要がある。自宅でもOKならそれでいいし、「ちょっとな……」と思えば、外を選んだほうがいいだろう。
最近は、「コワーキングスペース」という、会議室やイベントスペースなども備えた個人で仕事をする人向けのオープンスペースがある。そこに机を借りて仕事をすることができる。月額1万円くらいで借りられるのだったら、そうしたものを活用してもいいだろう。
さらに、そうやって頑張っていると、支援者の人のなかから、「タダでこのスペースを使ってもいいよ」と言ってくれる人が現れたりすることもある。その時は、ぜひお言葉に甘えてしまおう。
僕の場合も、大崎の商店街で「地域の顔」ともいえる方から、「おまえ、頑張っているから、俺のビル貸してやる」という言葉をいただき、ありがたくそのビルの一角に机を置かせてもらった。
きちんとしたオフィスがない状態で、スタッフの研修や利用者への説明会などをどこで行うのかといえば、公民館や地区センターのような行政のスペースを借りればいい。「それだと安っぽく見られないか」というのは杞憂(きゆう)。実際、スタッフや利用者はそこを見ていない。それよりも中身だ。
これは僕自身が利用者さんへの説明会を公民館で行った時に強く感じたことだ。スペースに見栄(みえ)を張る必要はないのだ。
サービスインして、お金がまわりはじめてからのオフィスについても、補足しておこう。
そのころになると、有給スタッフも雇うようになり、さすがにコーヒーチェーンやコワーキングスペースでは場所が足りなくなる。その時におすすめなのが、個室のある「シェアオフィス」。家賃は月数万円かかるが、商業ビルで事務所を借りるより断然安い。
そのほか、SOHOがOKなマンションの一室を借りて、ほかの組織とシェアする手もある。ちなみに僕はこの方法をとった。2LDKをそれぞれが1部屋ずつ使い、リビングは共同スペースにして……と、まさに「勝手にシェアオフィス」としたわけだ。
繰り返しになるが、お金がまわっていないうちは、極力、固定費は抑えるにかぎる。オフィスにもとにかくお金をかけない。このスタンスをしっかり維持してほしい。
前回は、オフィスについて見たが、では、そこで使う備品類をどうするか……。
備品類といってまず頭に浮かぶのがパソコンであろう。今やパソコンさえあれば仕事ができる時代。これだけあればすぐにでも仕事をスタートできる。
パソコンは、経営者もボランティアスタッフも、原則、自前である。そして、それぞれのパソコンのセキュリティーはしっかりしておくこと。チームで仕事をするのだから当然である。それぞれ自分でセキュリティーソフトも入れてもらうようにする。今は無料のセキュリティーソフトもあるので、「自腹がきつい」というスタッフには、そうしたものを紹介するといいだろう。
最初は、こんな具合に、パソコンもセキュリティーソフトも自前が原則だが、スタッフが増えてきたら、さすがにこちらから支給する必要がある。
といっても、家電量販で購入するなんて、お金のかかることをしてはいけない。ぜひ利用をおすすめしたいのが、「リユースPC寄贈プログラム」。
中古のPC(といっても、使用は2年程度で、まだまだ十分に使えるもの)などを、NPOやソーシャルビジネスに無償で寄贈するプログラムだ。現在、さまざまなNPOや財団が実施しており、ウェブで検索するといろいろヒットする。これに応募してみるといいだろう。
また、自分たちの団体を支援してくれる企業に、「すみません。パソコンをいただけませんか?」とお願いする手もある。何事も頼んでみるもので、「いいよ。ちょっと古いけどあげるよ」と言ってもらえるケースも多い。
また、コピー機などの周辺機器も、寄贈プログラムを利用しよう。あるいは、コワーキングスペースを利用している場合は、そこにあるものを利用させてもらう。
そのほか、文房具などの備品は、ブログやフェイスブック、ツイッターなどを活用するのがお勧め。「募っています!」と書くと、応援してくださる方々から、結構いただけたりする。僕も実は、それでいろいろ助けてもらった。
サービスインをしたら、いきなり大繁盛!――そんな展開を期待している人がいるかもしれない。
しかし、そんな甘い考えはさっさと捨てたほうがいい。
その理由は、「現実にそんなことは起こらないから」だけではない。最初は小さく始めたほうがいいからだ。小さくても素早くPDCAサイクルを回し、生まれたてのサービスを促成栽培させていく。
いきなり拡大路線をとってしまうと、結局はいずれサービスの質を落としてしまうことになりかねない。
なにせ、サービスインした当初は、現場はまだ不安定。サービスのためのインフラが十分には整っていない。それにかまわず拡大してしまえば、現場はますますガタガタになってしまう。これでは、ビジネスとして長続きするはずはなく、いつしか破綻してしまうだろう。
だからこそ、僕は「最初は小さく始める」をすすめる。
たとえば、会員制のかたちをとるのならば、最初は会員数を制限したほうがいい。実際、フローレンスでも、当初は会員の募集は月10人と制限していた。そうやって成長のスピードをコントロールして、その一方で、現場をしっかりとつくっていくのである。
現場をつくっていく際に目標とすべきは、顧客に「これはぜひ口コミしたい」と思ってもらえる内容やレベルまで高めていくこと。広告にお金がかけられないソーシャル・ビジネスにとって、口コミは大きな戦力になるからだ。
そのためには、顧客の満足度をできるだけ正確につかみ、それをもとに、顧客にもっと満足してもらえる現場を整えていくことが必要になる。
そこでぜひ活用をおすすめしたいのが、「ネット・プロモーター・スコア」(以下、NPS)という指標。これは、アメリカのコンサルティング会社であるベイン・アンド・カンパニーのフレデリック・ライクヘルド氏が提唱した、顧客のロイヤルティー(忠誠度)を測る指標である。とても簡単に顧客の満足度を測ることができ、アメリカでは上場企業の約3割が導入。フローレンスでも現場づくりの重要なデータになると考え、これを採用している。
方法は非常にシンプル。サービスを受けたお客さんに「あなたは、このサービスを友人にすすめますか?」というたった1つの質問をする。それに対して、顧客は0~10の11段階で評価。
その結果は、次の3つのグループに分けられる。
10~9:推奨者
8~7:中立者
6~0:批判者
「推奨者」のグループは、おそらく友人にすすめてくれるだろう。この人たちは、現状のサービスでも十分に口コミしてくれる可能性が高い。
「中立者」は、たぶん批判もしなければ、すすめてもくれないグループ。現状のままでは、この人たちからの口コミは期待できない。
「批判者」のグループの人たちにいたっては、すすめてくれないどころか、陰口を言う恐れがある。いい口コミではなく、悪い評判を流すグループと想定されるのである。評価が1や2のお客さんは、相当に不満を感じているので、かなりの確率で悪口を言ってまわるだろう。
さて、NPSで注目するのは「推奨者」と「批判者」。
1つの悪い口コミ(批判者)が1つのいい口コミ(推奨者)を打ち消すという考え方に基づき、「批判者」の割合から「推奨者」の割合を引く。そこで算出されるのが、正味(net)の推奨者の割合となる。別の言葉でいえば、正味の口コミ率。
たとえば「推奨者」が全体の30%で、「批判者」が40%だったとする。その場合、30%-40%で、正味の口コミ率はマイナス10%となる。この数字が示すのは、いい口コミが起こらずに悪い口コミが広がるということ。
NPSでは「満足しましたか? それとも不満ですか?」といった二者択一タイプの満足度調査よりも、はるかにシビアな数字が出る。しかし、それは顧客の本音をよく表した数字なのである。これが現実と受け止めるしかない。
いい口コミが広がるサイクルに入るには、正味の口コミ率をプラスに転じさせること。それには現場を改善していくしかない。「批判者」だった人を「中立者」に、「中立者」だった人を「推奨者」にするために、サービスの質をどんどん高めていくのである。
では、どうやって現場を改善していくか。それについては次回、述べたい。
これまで必死に取り組んできたビジネスが、スケールアップ、さらにはスケールアウトを経て、拡大のゴールがある程度見える段階にまで発展してきたら、事業の「多角化」を考えるソーシャルビジネス/NPO経営者もいるだろう。
というのも、社会事業を行っていると、新たな社会問題にそれこそ「出会って」しまったりする。僕の場合、病児保育をしていたら、あるひとり親の方と出会い、その苦境を知ってしまった。そこから、ひとり親向け、格安病児保育をやることになった。また、社員が育休から戻ってこようとした時に、たまたま待機児童問題で復帰できず、そこから待機児童問題解決のために小規模保育を立ち上げることになった。更には障害児の親との出会いから、障害児保育園も創った。
これらは最初から戦略的に狙ったのでも何でもなく、社会問題との出会いから、やむにやまれずやり始めたことだ。課題の最前線にいると、望まずとも「見えてしまう」のだ。放ってはおけない、と思う人も多いだろう。
「多角化」というのは、複数の事業を行うことで、新たな事業が成長すれば、組織としては成長エンジンを複数化できる。一方で、投入できる人や時間、お金等のリソースが分散されてしまうというデメリットもある。更には、その新規事業が失敗した時には、本業にもダメージを与えるリスクもある。やむにやまれず出会ったしまった社会問題に対して、胸は熱くたぎってしまうだろうが、こうしたリスクを十分に計算しなくてはいけない。
一般的にはビジネスと同様に、ソーシャルビジネスにおいても「隣接領域」の方が多角化しやすい。
たとえば、これまでのサービスが「就学前の子ども」を対象にしていたのならば、「学齢期の子ども」も加えるとか、「ヘルパー派遣」だけだったサービスに施設での「デイサービス」も加えるとか……。こんな具合に、いまのビジネスと隣接している領域でサービスメニューを増やしていく。
なぜ、隣接領域がいいのかというと、ノウハウが似ていることも多く、新メニューの開発も展開もしやすいからだ。また、ユーザー(顧客)が重なりやすいことも、メリットとして挙げられる。たとえば、先ほどの例でいえば、「就学前にお世話になっていたので、学齢期になってからもお願いします」と、引きつづき利用してくれる可能性もある。そのため、利用者を増やしやすい。
この辺りは学問的にも研究が進んでいて、著名なものだと戦略論の大家、リチャード・ルメルトの研究が挙げられるだろう。(『多角化戦略と経済成果』1974等)
ルメルトは諸研究の中で、以下のように語る。
<1>主力事業の周辺や主力事業から派生した関連事業に限定して多角化を行っている企業の収益性は、相対的に高い
<2>主力事業だけに限定して事業を展開している企業や、事業間の関連性が薄い多角化を展開している企業の収益性は、相対的に低い
また、時期に関しては、本業から経営者が離れて、新規事業にある程度のキャパシティを割ける、という段階になってからが望ましい。
ところが、実際のところ、なかなかそこまでじっと我慢することは、起業家にとって難しい。
事業を展開しはじめると、前述したように色々と困っている人たちに出会う。すると、社会起業家の多くは、手助けしたくなる。そしてあれもこれもやりたくなってしまうのだ。
しかしそこでは、持ち前の起業家精神にタガをはめる必要が出てくる。いまの事業で目標利益率まで達成していない場合は、時期尚早である場合が多い。
なにせ、その段階では組織はまだ小さく、慢性的な人手不足の状態。お金だってそれほどあるわけではないだろう。ノウハウだってまだまだ試行錯誤中。
そこにきて、もう一つ二つと事業が加わろうものなら、エネルギーが分散してしまう。隣接領域だからといっても、やはり新しいサービスメニューを開発・展開していくとなると、お金も時間も人も、かなり必要となるからだ。
そうやってエネルギーが分散してしまえば、必然的にもともとのビジネスの質も悪くなる。その結果、どちらともグジャグジャになって、組織そのものも破綻……となってしまいかねない。
だからこそ、新規事業に取り組むタイミングは、もともとの事業が目標利益率に達していることが財務的な条件である。またスタッフもそろい、経営者が「自分がもともとの事業からいなくなっても組織がまわっていく」と確信できた、そのときだ。
本業を壊さないよう、新規事業を育てて行く。この難しい両立を達成していくことが、多角化には求められる。社会事業の場合、ビジネスよりも「目の前で困っている人」が見えやすい環境にあるので、自制するには強い気持ちが必要だが、冷静な頭と情熱的な心を両立させ、多角化に臨まなくてはならない。
しかし一方で、新規事業は困っている人々を助け、組織の成長を助ける。この難しい両立にきちんと相対していくのも、ソーシャルビジネス経営者の課題だと言えるだろう。
「疑似家族として作り直せる世界が共同生活にはある」とNPO法人北陸青少年自立援助センター・Peaceful Houseはぐれ雲のリーダー江川貴浩(35歳)は話す。
製造業界で働く父親と専業主婦の母親のもと、神奈川県逗子市に生まれた。父親は転勤族で、幼少期から転校を繰り返した。友達と野球に明け暮れる闊達(かったつ)な少年であったが、小学6年生の夏休み明け、突如、学校に行けなくなる。理由は「なんとなく」と江川自身も明確な答えを持ち合わせていない。慌てた両親は江川を病院に連れていく。内科や神経科だけでなく、脳検査も行ったが異常は見つからなかった。
中学生となり、入学式だけは出席したものの翌日から登校できなくなった。1か月様子をみたものの状況は変わらず、母親から「少し環境を変えてみては」との提案を受け、横浜の祖父母のもとで過ごすことにした。江川自身も「何かを変えなければいけない。変わりたい」と願っていた。
大きな変化はなかったが、「何か勉強をしないといけないのではないか」と焦っていた江川に、祖母は「あなたの好きな世界地図を眺めていればいいよ」と声をかけた。「これも勉強をしていることになるんだ」と救われた気持ちになった。
月に数回、嫌々ではあったが特に抵抗することもなくクリニックでカウンセリングを受けた。あるとき、主治医から「君は変わりたいの?」と聞かれ、素直に「はい」と答えた。全国から学校や社会に居場所のない10代、20代の若者が集まり、共同生活を通じた自立支援を行う「はぐれ雲(現NPO法人北陸青少年自立援助センター Peaceful Houseはぐれ雲)」を紹介された。
変わりたい自分と、知らない場所に行くことへの不安。悩んだ末に、江川は入寮を両親に願いでる。「自分には選択肢がなかった」という。富山県にある「はぐれ雲」の前に到着したとき、怖くて車から降りられなかった。しかし、最後は意を決して自らドアを開けた。1991年7月の暑い日だった。
「はぐれ雲」での共同生活は楽しかった。やんちゃなお兄さんたちに囲まれ、農業に従事したり、地元のお祭りに参加したりした。寮から学校に通っている仲間が夏休みだったため、毎晩が修学旅行や合宿のようだった。「ひととの触れ合い、関わり合いが嬉(うれ)しかった。でも、笑顔の裏側で寂しさから帰りたいとも思っていた」と江川は振り返る。血のつながらないお兄さん、お姉さんたちが学校に通う姿を見て、江川は自然と「通いたいな」と思うようになる。「はぐれ雲」に来て4か月経(た)った11月、寮から地元の中学校に登校することを決意する。「初日はめちゃくちゃ緊張しました。負のイメージしかない。ただ、寮生のみんなが先輩としている安心感があった」という。
陸上部に入り、友人らと騒ぐ。そんな中学生らしい中学校生活を取り戻した江川は、卒寮し、両親とともに東京で暮らし始める。大きな問題もなく高校を卒業し、1年の浪人生活を経て専修大学法学部法律学科に進学した。しかし、授業に面白みを見いだせず、惰性でサークルやバイトを繰り返す日々。2回生を終えた時点でほとんど単位を取っていなかったため留年が決定する。
なんとなく過ぎていく毎日に、「一度立ち止まって考える時間がほしかった。何かに疲れていたのかもしれない」と江川は大学を休学する。アルバイトで貯(た)めた資金を取り崩しながらアジアを旅行したり、のんびりと時間を過ごしたりした。「休学の1年で何かすごくリラックスできた気がした」と江川。復学後は真面目に授業に出た。すると勉強が面白くなってきた。安易に決めた大学進学、学びに目が向いていなかった自分、大学が有意義な学び舎(や)に変わった。
卒業後は警察官を志望する。「転勤を繰り返す父親のようなサラリーマン生活は考えられなかった」という江川には、高校時代にバイク違反で捕まったとき、地元交番の警察官が口にした「お前は警察官に向いているんじゃないか」という何気ない一言が心に残っていたからだ。しかし、1次試験は通過したが面接に受からなかった。
警察官への道が絶たれた江川。ひとのためになれる仕事は何かと思案していたところ、父親から「はぐれ雲」の代表である川又直氏に相談してみたらいいと助言を受けた。何年かぶりに電話をすると、川又氏から「遊びに来いよ」と言われ、すぐに富山へ向かった。第二の故郷である富山。夏休みだったこともあり、そのままボランティアで2か月滞在した。そこには江川がお世話になっていた頃と変わらない若者たちがいた。一時的に本来の力を出せない状態の彼らを見て、素直に応援したいと思った。「この仕事で食いたいです」と川又氏に伝えたところ、卒業後の就職先が決まった。2003年4月1日、江川は「はぐれ雲」の職員として富山の地に根を張る。
寮生を応援しようと意気軒昂(けんこう)な江川だったが、いきなり若者と衝突する。畑の草取りの作業中、「俺はやらない」とふてくされる19歳の男性と激しい口論となる。周囲の制止によりその場は収まったが、「あのままだったらどうなったかわからなかった」と江川は話す。
数時間後、冷静になった2人は畑に座って話し合った。「両親のもとから離れた寂しさからでしょうね。何とか力になりたかったが、まだ信頼関係が結びきれていないなかで、自分自身がこれでうまくいったという思い上がりがあった。彼はそれを感じたのでしょう。大人の気持ちを敏感に感じられる若者ばかりですから」。以来、江川は同じ目線に立ちながらも、言葉より行動する背中で信頼を得ていけるよう努めている。その男性は無事に自立していった。いまも連絡を取り合う仲だ。ひとにかかわるとは何かを学び、ひとと向かい合う心を忘れてはいけないことを江川に教えてくれた恩人だという。
共同生活型支援を行う「はぐれ雲」には、いまも中学生から30代までの幅広い年代層が全国から来ている。理由はさまざまだが、「親元を離れて生活するということ自体が大きな価値であり、自立である」というのが江川の考えだ。
生活をともにする現場で寮生から学び、支援者としての自分を成長させてきた江川だが、理論的な学びにも関心を持ち、2013年4月から精神保健福祉士の資格取得のため通信制の専門学校に通っている。「あくまでも現場、実践が主であり、その補完としての理論と位置付けています。逆はあり得ません」と持論を語る。来年1月の試験に向け、支援活動の合間に勉強を続けている。
支援の土台は共同生活。食卓を囲み、ともに作業する。笑い合い、ぶつかり合う。一緒に生きる。限られた時間のなかでのかかわりではなく、すべての時間がかかわりの世界であり、異なる大人の背中を見せられる世界で、江川は若者たちを支え続けている。
(次回は9月30日掲載予定です)