社会そのほか速
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学校給食法が1954年に施行され、今年で60年を迎えた。
パンから米飯中心になり、アレルギー対応、民間委託など、姿を大きく変えてきた給食。食育の教材としても期待が大きい。現状と課題を報告する。
10月8日、三重県熊野市の市立有馬小学校の教室には、鶏肉のハーブ焼き、ジャーマンポテト、キャベツのスープと、ご飯の給食が並んだ。当番の児童が緑茶の入った大きなやかんを持って回り、コップに入れていく。
同校など市内の小中12校中7校では、国が76年にパン中心だった給食の主食に米飯導入を決めた後、給食の時間に牛乳を飲んでいない。中村秀久校長(56)は「パンなら牛乳が合うが、ご飯の時は普通の食事でもお茶を飲むため」と話す。
給食での牛乳の提供は同法で義務づけられてはいない。ただ、学校給食実施基準で給食で摂取するカルシウムの目安を定めており、牛乳なら1パック(200ミリ・リットル)で半分以上取れる。
同校でも牛乳なしで基準を満たすのは難しいため、週3回、午前中の休み時間に教室で牛乳1パックを全員に配る。「牛乳はあまり好きじゃないけど、ちょうど喉がかわく時間だから飲める」。児童たちは友達と話しながら一気に飲み干した。
ご飯に牛乳は、ふさわしいのか――。米飯給食が始まって40年近くたち、議論が再燃している。
文部科学省の2012年度の調査によると、95%の学校が給食で週3回以上米飯を出し、このうち週5日の「完全米飯給食」は7%。いずれも増加傾向だ。さらに昨年12月、和食が国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産に登録された。
京都市教委は4月、学校給食における和食のあり方を検討する会議を設立。京料理の料理人や学校関係者らが10月下旬、「牛乳はデザートのように食後に飲む」などと提案した。近く市民から意見を募集する。
新潟県三条市では12月から4か月間、牛乳なしの給食を試験的に実施する。同市では完全米飯給食導入を翌年度に控えた07年冬、牛乳を給食以外の時間に飲むよう全小中学校で試行したが、「寒い中で牛乳だけ飲めない」「手間がかかる」と反発され、断念した。
今回は牛乳以外で十分な栄養がとれるよう、小魚で作ったふりかけを入れたり、ご飯の量を増やしたりとメニューを考案中だ。田村直・同市食育推進室長(57)は「まるでパズルをしているよう」と準備に追われる。検証を経て、来年10月から本格実施するかどうかを決める。
食育ジャーナリストの砂田登志子さん(78)は「牛乳は様々な栄養が含まれる食品だが、同じ栄養は他の食品の組み合わせでも得ることができる。画一的な給食を見直すきっかけになるのではないか」と話している。
日本の学校給食は戦後の食糧難の時代、外国から寄贈された脱脂粉乳と、小麦粉で作ったパンで本格化した。1957年には国産の脱脂粉乳を学校給食用に安定的に供給する国の補助事業が始まり、その後、牛乳が普及。国産飲用牛乳の全生産量の約1割にあたる約37万キロ・リットル(2013年)が学校給食で消費されている。
学校給食では、食物アレルギーのある子どもたちへの対応が欠かせない。
2012年12月、東京都調布市の市立小学校で、給食で出されたチーズ入りチヂミを食べた女子児童が死亡した。女児には乳製品アレルギーがあった。
学校給食では1988年にも、札幌市でそばアレルギーの小学生が死亡する事故があった。その後、アレルギーを持つ子どものために食べられない食材を除去したり、食材を替えたりと個別対応をする学校が増えた。調布市の小学校でも、女児にチーズ抜きのチヂミを用意したが、お代わりを希望した際に担任がチーズ入りのものを渡していた。
事故後、市教委は対策を重ねてきた。間違いを防ぐため、アレルギー食品を取り除いた除去食と通常食をトレーの色で分けた上で、除去食にはチェック用のカードに担任がサインするようにした。お代わりは禁止した。一部の小学校の調理室に、アレルギー対応専用の調理スペースや器具を設置。緊急時には、専門医に直接連絡できるホットラインを設けた。
都教委は、緊急対応などの研修を増やし、昨年度は7回開いた。鈴木隆也・都教委健康教育担当課長は「担任に任せていては適切な対応がとれない。校内で役割分担を決め、準備しておきたい」と語る。
事故を受けて文部科学省が2013年に行った調査では、全公立小中高校の児童生徒の4.5%にあたる40万人余りが卵や牛乳、小麦などの食物にアレルギーがあった。04年の前回調査の1.2倍に上った。
各校では対応マニュアルの策定が進んでいる。
相模原市中央区の市立向陽小学校は3年前にマニュアルを作り、児童らの理解を得ながら、食物アレルギーのショック症状を和らげる自己注射薬「エピペン」を持つ子どものロッカーの外枠に緑色のビニールテープを貼っている。担任の教師が出張などで不在の時でも、迅速に対処するためだ。壁には、アレルギーを持つ子どもごとに食べてはいけないものが献立表に記されている。
当初は、保護者や教職員の間に「アレルギーの有無で子どもたちを区別すると、いじめを引き起こしかねない」との懸念もあった。だが、実際には、子どもたち同士で注意をし合うなど、互いの理解を深めることにつながったという。朝野秀典校長(56)は「子どもの命を守ることが第一。食物アレルギーは急に症状が出る場合もある。それぞれが自分の問題として考えることが大切」と話した。
食物アレルギー 卵や小麦など、特定の食べ物を食べたり、触ったりすると、免疫機能が過剰に反応して有害な症状が起きること。湿疹や目の充血、喉のかゆみ、息苦しさなど様々な症状が出る。血圧低下や意識障害を引き起こし、命を落とすこともある。
東京都杉並区立神明中学3年の時、私は恋に落ちた。
活発で髪が短くて、かわいくて。私より背が高かった。全然、振り向いてもらえない。その頃の私は、勉強なんて全くしない、自堕落な生徒だったの。
それでも、彼女の気を引こうと真剣に考えた。女の子にモテるのはスポーツ万能か、ユーモアがあるか。私にはどちらも難しい。もう一つは、「才気走った不良」。それも、国語や社会ではなく、数学ができると、「頭がいい」と思ってくれるんじゃないかと。小学生の頃から、算数は勉強しないわりにできていたしね。
隠れて数学だけ勉強して、夏休みに初デートした。でも、ふられてしまった。お母さんに、「勉強のできない子と付き合っちゃダメ」と言われたんだそうだ。
それが私の心に火を付けたの。見返してやりたい。名門と言われる都立高校を目指して、心を改めてがんばった。でも、時すでに遅くて、合格できなかった。
実は、中学受験も失敗している。遊んでばかりの私を見かねた母親が、勉強させるために受けさせたんだ。怠けて、ちょっと奮起して、失敗して、また怠けて。だんだんその繰り返しが嫌になってきた。
で、自分は何がしたいかと考えた時に浮かんだのが、数学。人が気付いていない真理を、人と違った角度から眺めて見つけ出す。仕留めがいがあるんですよ、数学は。
ひとさまに迷惑をかけないように食いつなぎ、数学をやり続けようと。今も、貯金もなければ家庭もない。でも、数学と心中する気持ちでやってきて、それでよかったと思っているの。(聞き手・加藤理佐)
(2014年4月24日付読売新聞朝刊掲載)
3歳の時に父が戦死してから、母が和裁をしたり、近所の畑を手伝ったりして、姉と僕、弟の3人を育ててくれた。
小中学校時代のお弁当はほぼ毎日サツマイモ。日本中が貧しい時代だったけれど、我が家は特に貧乏だった。
食いしん坊の僕は、おなかを満たすことにかけては天才的だった。山でタケノコを掘り、川でアユやカニ、エビを捕まえた。みずみずしくパキンと音を立てて割れるキュウリ、青臭い酸味が口いっぱいに広がるトマト。新鮮な食材の宝庫だった。あの頃に覚えた素材の味は財産だ。
中学生になると、母の帰宅を待つ間に、台所に立つようになった。自分で調達した食材をゆでたり焼いたり。最初は簡単な料理だったけれど、姉や母はとても喜んだ。「おいしかった」と褒められるのがうれしくて、いろいろ工夫するようになった。食べた人の笑顔が見たい。その思いの延長に、仕事がある。
この世界への道を後押ししてくれたのは、中3の時担任だった戸崎保先生。先生は僕や弟のために、家庭訪問の時など、さりげなく色鉛筆やノートなどを持ってきてくれた。
「高校は出してやりたい」という母に従って進学はしたけれど、僕は勉強が嫌い。それに早く自立して家族を助けたかった。戸崎先生を中学校に訪ねて「高校を中退して料理人になりたい」と打ち明けた。「そうか。絵も上手だし、器用だからいいかもしれないな」と短く言って、母との間にたってくれた。
先生は僕の気持ちも、母の思いも、我が家の経済状況も本当によく分かっていてくれた。「貧乏だからって、心まで貧しくなるなよ」と励ましてくれた。先生の言葉があったから、僕は胸を張って上を目指してこられたんだ。(聞き手・大広悠子)
(2014年9月4日付読売新聞朝刊掲載)
中国から来た両親らが暮らしていた神戸で生まれ育ち、地元の中国人の子どもが通う神戸中華同文学校で、小、中学の9年間を過ごしました。
学校では、同級生も先生も中国人、授業は中国語で行われ、教科書も中国語で書かれていました。日本の中にあるけれど、外国みたい。悪いことをしたお仕置きに、廊下にひざで立たされました。私も宿題を忘れて立たされたことがあったけれど、これが痛いのなんのって。
中学では日本語と英語も学び、私は日本の高校に進学したいと考えていました。3年生になって進学先を決める時期に、同級生から「宝塚音楽学校」という学校があることを聞きました。「えっ、そこはなーに?」とたずねたら、芸事を教えてくれて、将来は舞台にも出られると言われました。人を喜ばせることが大好きだった私は、すっかりひかれてしまいました。
私は高校受験のつもりで宝塚音楽学校に願書を出しました。当時、神戸中華同文学校から入学した人は一人もいません。先生も応援してくれ、苦手だった音楽の成績は「5」になりました。試験で特技を聞かれ、「中国語の歌がうたえます」と答えて、中国の歌曲「草原情歌」を歌ったことも覚えています。
結果は合格。少し前まで宝塚の「た」の字も知らなかったのに母校のおかげです。普通の日本人と違ってエキゾチックといわれる雰囲気も、神戸中華同文学校の9年間で身についたものだと思っています。
音楽学校を経て歌劇団に入ったのが50年前。そして今年は宝塚歌劇100周年。元タカラジェンヌとしてお祝いできるのはとても幸せです。(聞き手 鳥越恭)
(2014年12月4日付読売新聞朝刊掲載)