社会そのほか速
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時計は震災4か月後の2011年7月、志津川湾(宮城県南三陸町)の海底から「主(あるじ)」とともに見つかった。身元不明のまま荼毘(だび)に付された遺骨とともに、先月まで南三陸町役場で保管されていた。「ベイサイド425」の名は、安置場所が同町の運動施設ベイサイドアリーナだったためだ。
「震災当日は、気仙沼や石巻で遺体の引き渡し作業をしました。中には、流される寸前に自分で体に書いた名前で身元がわかった親子もいらっしゃいました。ご家族と対面できた時は、『やっと帰れたね』と涙が出ました」
分厚い「DNA鑑定管理簿」がずらりと棚に並ぶ宮城県警捜査1課の「身元不明・行方不明者捜査班」。震災直後から身元特定の作業を続ける金田徹検視官らは3年をこう振り返る。今は朝から晩までDNA試料の精査を行う日々。「何としても家族の元へ」という執念に支えられた毎日だという。
遺品や写真、遺体から作成した似顔絵の公開、DNA試料の照合……。地道な作業が一つずつ実を結び、被災3県の身元不明の遺体は、震災直後の1091人から残り97人になった。
震災から明日で3年。被災地では身元のわからない遺骨を納める無縁墓地や納骨堂の造営も進む中、「最後まで捜したい」という遺族と、「絶対にあきらめない」という検視官らの強い思いは続いている。
先月6日、雪の降りしきるベイサイドアリーナで、真新しい布に包まれた「ベイサイド425」が南三陸町戸倉の佐々木久子さん(60)に引き渡された。骨片のDNA試料照合と衣類が決め手になり、ようやく身元が判明したのだ。
近所に住んでいた父母をともに津波で流された佐々木さんは「あの日まで確かに生きていた父が戻ってきたんですね」と涙ぐむと、名前を取り戻した首藤勝二さん(当時80)の遺骨をしっかりと胸に抱いた。
写真と文 青山謙太郎(2月6日から21日に撮影)