社会そのほか速
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3歳の時に父が戦死してから、母が和裁をしたり、近所の畑を手伝ったりして、姉と僕、弟の3人を育ててくれた。
小中学校時代のお弁当はほぼ毎日サツマイモ。日本中が貧しい時代だったけれど、我が家は特に貧乏だった。
食いしん坊の僕は、おなかを満たすことにかけては天才的だった。山でタケノコを掘り、川でアユやカニ、エビを捕まえた。みずみずしくパキンと音を立てて割れるキュウリ、青臭い酸味が口いっぱいに広がるトマト。新鮮な食材の宝庫だった。あの頃に覚えた素材の味は財産だ。
中学生になると、母の帰宅を待つ間に、台所に立つようになった。自分で調達した食材をゆでたり焼いたり。最初は簡単な料理だったけれど、姉や母はとても喜んだ。「おいしかった」と褒められるのがうれしくて、いろいろ工夫するようになった。食べた人の笑顔が見たい。その思いの延長に、仕事がある。
この世界への道を後押ししてくれたのは、中3の時担任だった戸崎保先生。先生は僕や弟のために、家庭訪問の時など、さりげなく色鉛筆やノートなどを持ってきてくれた。
「高校は出してやりたい」という母に従って進学はしたけれど、僕は勉強が嫌い。それに早く自立して家族を助けたかった。戸崎先生を中学校に訪ねて「高校を中退して料理人になりたい」と打ち明けた。「そうか。絵も上手だし、器用だからいいかもしれないな」と短く言って、母との間にたってくれた。
先生は僕の気持ちも、母の思いも、我が家の経済状況も本当によく分かっていてくれた。「貧乏だからって、心まで貧しくなるなよ」と励ましてくれた。先生の言葉があったから、僕は胸を張って上を目指してこられたんだ。(聞き手・大広悠子)
(2014年9月4日付読売新聞朝刊掲載)