社会そのほか速
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あれから4年が経った。だが、故郷の風景を変えてしまった震災への感情はまだ割り切れていなかった。自らの思いをどう表現するべきか。平野恵里子(22)は言いよどんだ末にこう説明した。
「周りの方から震災大変だったねと言っていただいたけど、自分にしか分からない思いがあって…。明るく、大丈夫だよという感じで答えてきた。周りの方も震災のことを聞くと空気が悪くなってしまうと思ったので」
岩手県大槌町で生まれた平野は、釜石工でラグビーをしていた父・博美さんの影響で、小1の時から姉や兄と一緒に釜石シーウェイブスRFCジュニアでラグビーを始めた。釜石高を卒業し、リオ五輪を目指して日体大への入学が決まっていた。震災が起きたのは、高校の卒業式の10日後のことだった。
父親の土木の仕事を手伝い、山で法面の吹きつけ作業をしていたため、津波からは逃れられた。しかし「海から歩いて5分」の実家は全壊。家族とともに避難所生活を経験した。一変した暮らし。「全く先が見えなかったので、私の中には大学に行くという選択肢はなかった」。だが博美さんに説得され、博美さんの運転する車で上京。あの時から4年が経ち、10日に都内で卒業式を迎えた。
「4年間いろんなことがあった。大学生活は辛かった4年間かなあ。親もきょうだいも大学に行ったことがなくて、私だけ行かせてもらった期待も感じていた」。そんな風に振り返る平野だが、故郷への思いが苦労を乗り越える力にもなってきた。地元に帰れば「お前が代表を目指して頑張っていることがみんなの元気になる」と昔のコーチにも声をかけられた。「自分のためというより応援してくれてる人のために頑張れてます」
昨年は代表候補に選ばれたものの、年末のセレクション合宿中に左膝の前十字じん帯と半月板を負傷して手術を受けた。現在は夏頃の復帰を目指してリハビリとトレーニングに励む日々。11月に予定される五輪予選出場は厳しい状況だが、「周りにもケガを乗り越えて、強くなって戻ってきた選手もいる。わたしもそうなりたい」と前を向いた。
4年前の入学式に車で送り届けてくれた博美さんは、この日は母・幸代さんとともに夜行バスで駆けつけた。平野の家族はまだ仮設住宅暮らしが続く。「代替地はあるんだけどダブルローンになっちゃうから」と語る博美さんの表情には苦労がにじむ。それでも立派に成長し、ラグビー部の仲間と笑いあう娘をうれしそうに眺めていた。
釜石市はラグビーW杯の開催地にも決定。7人制ラグビーが正式競技に採用されるリオ五輪で平野が代表に入れば、一層ラグビー熱は盛り上がるだろう。平野は今後、横浜市内の病院で医療事務をしながら「YOKOHAMA TKM」という女子チームで活動する。「自分にしか分からない」故郷への思いを胸に、高校時代から抱く五輪という夢を追いかける。