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3月14日に北陸新幹線が開業する。これまで東京~北陸の交通は、上越新幹線や東海道新幹線から特急を乗り継ぐ陸路と、羽田空港と小松空港や富山空港を結ぶ空路が激しい競争を繰り広げてきた。時間的な優位を保ってきた空路だが、北陸新幹線開業後は時間的にも運賃も陸路と拮抗することになる。航空各社は陸路に、どう対抗しようとしているのか? そして行政の対応は?
航空各社の対応は?
[写真]小松便の出発案内表示(撮影:三堀仁)
空港リムジンバスの利用料金と合わせて「鉄道と同等の価格を設定する」というのが日本航空だ。小松空港は、石川県小松市にある空港で、JR金沢駅まではバスで約40分かかる。同社の「特便割引」の割引率を変えることで、同等の価格を実現する。飛行機材を小さくするが、現在の6往復体制は守るという。
同社は、東京~北陸間の運賃だけを視野に入れているわけではない。小松空港から羽田空港を経由し、国内・国際線で各方面に乗り継ぐ旅客向けの「乗継割引率」を高くするなど手段を講じて、北陸新幹線に対抗する考えだ。
小松空港は、北陸新幹線が開通していない福井県に近いこともあり、同社広報は「金沢市や小松市周辺の人たちだけでなく、福井県の人にも利用してもらいたい」と周辺部の利用客を見込む。
全日空も日本航空と考え方は基本的に同じだ。「運賃体系は今後の動向を見ながら考える」としながらも、すでに値下げを表明しており、飛行機材は小さくするが6往復体制は維持する。また空路は、陸路と違って海外とつながっているところが強みとあって、同社は「北陸から海外へ、海外から北陸への需要を作っていく」と話す。
地方都市では自動車利用が不可欠
[表]北陸新幹線と航空料金の比較表
小松空港を抱える石川県では、行政として航空路線の維持のための方策を考えている。空港企画課によると、各地方空港で航空乗り継ぎの協議会をつくってPRすると同時に、駐車場料金に補助金を出す。「地元の人は、ほとんど車で空港に行く」(同課)ためだ。
同県が、小松空港の駐車場を管理する国土交通省の外郭団体に働きかけた。これまでは1日600円から800円だったものが、400円から500円になる。同課は「旅客のトータルの負担を減らしたい」と話す。
富山県の場合は、石川県よりも東京に近く、空港自体が富山市中心部から遠くないため、より新幹線に乗客の志向が向かっていく可能性がある。しかし、富山県が目を付けるのは、富山市内だけでなく、氷見や立山連峰といった同県内の観光資源への交通の便だ。
富山県は、東京から航空路線を使用して富山に来る観光客のために、小型のレンタカーと宿泊施設50%引きのクーポンを4月から6月まで配布する予定だ。7月から10月までは、レンタカー1台2,000円の割引をする。
確かに、単純に東京と北陸の往復だけを考えるなら、新幹線のほうが便利かもしれない。しかし、そこからさらに遠くへ向かうとなると、交通手段の多様化とパッケージが意味を持ってくるのかもしれない。
(ライター・小林拓矢)
本記事は「THE PAGE」から提供を受けております。
著作権は提供各社に帰属します。
「命って何か、言えますか?簡単には言えないけど、強くもあり、弱くもある美しい輝きだと思います」
仙台湾から内陸部に入った宮城県東松島市立鳴瀬未来中学校。2月中旬、3年の「命の授業」が行われ、高橋佑麻君(15)が一言一言かみしめるように作文を読み上げた。東日本大震災で母の美千代さん(当時42歳)、姉の颯希(さつき)さん(同16歳)を亡くし、その思いを込めた。
未来中は震災2年後の2013年春、津波で校舎が全壊した鳴瀬第二中と、内陸部の鳴瀬第一中が統合した。生徒224人のうち、高橋君を含め、5人が震災で親やきょうだいを亡くし、50人以上が自宅を失った。さまざまなストレスを抱え、生徒の無気力が目立っていた。
震災と向き合い、心の内面を表に出すことで前を向くきっかけを作れないか。そんな思いで生徒指導担当の制野俊弘教諭(49)が昨年6月、3年のクラスで始めたのが命の授業だった。これまで7回の授業では、生徒が震災の体験を作文にして発表。クラスで感想を語り合いながら、一人一人が震災や命に対する思いを問い直してきた。
高橋君はそれまで「気を使わせたくない」と、震災体験を友人にも詳しく話していなかった。
震災時は小学5年生。500人以上の死者・行方不明者が出た野蒜(のびる)地区に住んでいた。小学校から帰宅し、津波に遭った。真っ黒い水が家の窓ガラスを突き破り、流れ込んだ。浮き上がった家具に阻まれ、美千代さんは身動きできず、颯希さんが家具を両手で動かそうとしていた。親類に救出された高橋君が2人を見たのはそれが最後だった。
最初の命の授業では作文を書ききれず、リポート用紙を自宅に持ち帰った。母と姉を救えなかった自責の思いを抱え、「足が動かない。そんな表現をよく聞くが、それが本当だと初めて知った。何もできなかったことを今も後悔している」と泣きながらつづった。そして、1枚半の作文を初めて書き上げた時、「少し気持ちが楽になっていくのを感じた」という。
高橋君は母と姉を思い出して落ち込む自分を「弱い人間」だと思っていたが、作文を読んだ級友らから「学校では悲しいそぶりを見せず、強い」と励まされた。「母と姉のためにも一生懸命生きたい。命とは何かを考え続けながら、自分なりに震災の体験を発信していきたい」と思うようになった。
「自分の弱さを自覚し、さらけ出せたのは彼の強さでもある」と制野教諭。一方で、今も作文を一文字も書けない生徒もいる。「時間がかかっても少しずつ思いを出し合い、つらさや苦しみを分かち合えるようになってほしい」と願う。
東松島市 人口約4万人。東日本大震災で全世帯の4分の3にあたる約1万1000戸が全半壊し、死者・行方不明者は1134人。仮設住宅の入居者は約2400人。小学校9校、中学校3校、高校2校がある。
女性警察官の歴史を紹介する特別展「警視庁の女性たち」が10日、東京都中央区京橋の警察博物館で始まった。
1946年に同庁が全国に先駆けて採用を始めた女性警察官のパネルや制服、制帽など計約70点を展示。この日の開場式でテープカットを行った保浦房子さん(90)は第1期生で、「盗品が転売されていないか確認するため、朝から晩まで質屋を回ったことを思い出した。後輩たちも元気で頑張ってほしい」と話した。
入場無料。5月6日まで(5月4日を除く月曜休館)。
(毎週水曜更新予定)
小山健
1984年奈良県生まれ。三重県育ちの現在大阪市在住、関西を中心にイラストレーター/マンガ家として活動中。ブログを書籍化した『手足をのばしてパタパタする』(エンターブレイン/1,080円)が好評発売中。
動画URL:https://www.youtube.com/watch?v=kgr6jky8xtw
11日で東日本大震災から4年。震災直後から「MY LIFE IS MY MESSAGE」の活動を通して福島県相馬市に寄り添い、音楽を通じて被災地を応援してきた山口洋さん(HEATWAVE)と矢井田瞳さん。2011年6月に初のチャリティーライブを開催して以来、全国でライブを行いながら、相馬で「美空ひばりフィルムコンサート」やサッカー教室を開いたり、障害者自立支援施設「えんどう豆」とコラボ商品を製作したり、地元FMにCDを寄付するなどで復興を応援してきた。活動しながら感じたことや福島への想いを聞いた。
今もやれることを一生懸命続けてる感じ
[写真]音楽を通じて被災地を応援してきた山口洋(左)と矢井田瞳に話を聞いた
──東日本大震災から4年が経ちました。相馬の復興を応援してこられて今どんな思いですか。
山口洋 一言では……。世の中が良くなったとは思えないし、ヤイコちゃん(矢井田瞳)含めみんなで一生懸命やってきたけど、そんなに影響を及せたとは思えない。だから、今もやれることを一生懸命続けてる感じかな。
矢井田瞳 ほんとに一言では言い表せない……。確かにあのとき感じたショックみたいなものは昨日の事のように思い出されるけど、月日としてはもう4年経ってるんですよね。その間に何ができたかなあと振り返り中です。
山口洋 あのとき、明日があることが普通じゃない、今日があることが当たり前じゃなかったんだって思ったあの感じをヤイコちゃんも俺も忘れたくないんだと思うんですよ。そう思ったから、 “じゃあ、未来を作るためにどうしたらいいか”を考えて。それは“今日を一生懸命生きる”ってことだなって。さらに僕が変わったとしたら、これは一緒にツアーをやってくれたチャボ (CHABO、仲井戸麗市) さんやヤイコちゃんから学んだことなんですけど、“一生懸命生きる”のは当たり前で、それに加えて、“丁寧に生きる”、丁寧なことを積み重ねるというか。ヤイコちゃんの行動とかまさにそうなんだけど、例えばピック500個にサインするとしたら、少し力抜いたりするじゃないですか、でも、彼女はあんまし力抜いてない。
矢井田瞳 いえいえいえ。
山口洋 そういうの見てて思うんですよ、おじさんも頑張んなきゃなと。一個一個サインするのに、気持ちが入っていないのと入ってるのでは全然違うんですよね。わかってても、やるとなったらけっこうたいへんなことで……
矢井田瞳 さすがに500枚だと、途中でちょっと気が遠くなるとか……自分のサインってこんなんだったっけ? とか思ったり(笑)。(矢井田はライブで「MY LIFE IS MY MESSAGE × HITOMI YAIDA」グッズとしてTシャツやサイン入りギターピックを販売し、その収益と会場に設置した募金箱の寄付金をMY LIFE IS MY MESSAGEに寄付している)
俺たちが信じてきたものを今鳴らさなくていつ鳴らすんだ
[写真]応援グッズとしてピックにサインする矢井田瞳
──そもそもの話ですが、MY LIFE IS MY MESSAGEはどういう思いで始められたのですか。
山口洋 これは僕が始めたことではなくて、フランスのChloe(クロエ)いう会社にそそのかされたというか、震災が起きて、“世の中を何とかしたいから山口洋の熱い力が必要だ”と言われて。明確に覚えているのは、そのとき「俺が本気になったらどうなるかわかってんのか?」って聞いたら、みんな「わかってる」って。それで、「わかった、俺もなんかやりたいから君たちと一緒にやろう」ってことで。
ヤイコちゃんが今いてくれるのは、始めるときに「女性がいた方が嬉しい」と言われて、iPhoneの連絡先をみたんだけど、俺は友達ほとんど男なんで、全然女性ミュージシャンの知り合いが出てこなくて、下のほうまでたどっていって「や」でようやく、あーー!って、それで矢井田さんに電話を。そのときヤイコちゃんも何かやりたいって思っていてくれて、最初に「続けることが大事だ」って言ったその気持ちをいまだにちゃんと持っていてくれている。1回だけ何かやるっていうのはできるけど、継続してやること、情熱を持ち続けることは一番むずかしい……
矢井田瞳 うん、一番むずかしい……
山口洋 そういう意味では(ヤイコちゃんには)すごく感謝しています。
──なぜ、相馬だったのですか。
山口洋 阪神淡路大震災もたいへんな災害だったけど、エリアとしては東日本大震災の何十分の一くらい。東日本大震災はあまりにも範囲が広大すぎて、どうしていいのかわからないし、赤十字に丸投げするのも違うんじゃないかと思っていろいろ話しているうちに、福島県相馬市中村町1丁目1番地というようなすごくピンポイントなことを継続して「支援する」って言い方は嫌だけど、一緒に汗をかいて、どうやったら街を取り戻せるかを考えていくことは可能なんじゃないかと。そういうポイントをみんながたくさん作っていけばいいのではと、2011年の3月の終わりくらいに思って。
その頃、コンサートが中心になってたでしょう。僕の青森のコンサートも中止のはずだったんですが、震災のとき僕はアメリカにいて、主宰者に国際電話をしたら、「俺たちが信じてきたものを今鳴らさなくていつ鳴らすんだ」と。それで無料でやりました。これ、笑い話ですけど、そのときに「募金箱」という漢字を僕も主宰者も書けなくて(笑)ひらがなで「ぼきんばこ」と書いて置いた。そこにたくさんのお金が入っていたのを見ていたときに、たまたま津波にやられた相馬というところの友達から電話がかかってきたんです。そのときに、“あ、ピンポイントは相馬だな“って直感で。
矢井田瞳 洋さんが声をかけてくださったときは、思考回路とかフリーズしてしまっていた。何かしたいんだけど何していいかわからない。まだ娘もちっちゃくてTo Doはたくさんあって、でも、これまで世話していた感じとも何かが違うみたいな、1個ネジが外れてしまったような感じの日々を過ごしていたので、すごい嬉しかったんです。人とのつながりも。久しぶりだったんですよね……
山口洋 うん。「そんなことやらない」って言われるんじゃないかって恐怖の方がでかかったから快諾してくれてよかったと。もともとそんなことをやるタイプの人間では僕もないし、ただやっぱりそれだけお互いにショックがでかかったんだと思う。
僕らが何かをやるんではなくて、現地の要請に応える
[写真]「相馬市復興応援 美空ひばり・チャリティー・フィルムコンサート」=2011年7月22日(MY LIFE IS MY MESSAGE提供)
──活動の中でいちばん印象に残っていることは?
山口洋 最初に決めたことは、“僕らが何かをやるんではなくて、現地の要請に応える”ということでした。(2011年の)5月か6月に、福島のおじいちゃんおばあちゃんから初めて「音楽をやってほしい」と言われたので、「じゃ、俺行くわ」って言ったら、「あんたじゃない、演歌か美空ひばりを呼んで」って言われて。ひばりさんの息子(加藤和也)が俺の親友だったから、頼んでひばりさんの膨大なライブラリーの中から、“お母さんが生きていたらたぶんこういうコンサートをやるだろう”っていう順番に映像を組んでもらって、7月に開催した。俺が前座をやって。よかったですよ、音楽に力があると思ったし。俺がおじいちゃんおばあちゃんの前で演奏するなんてあんまりないじゃないですか。ライブ中におばあちゃんに「ギターうまいぞ」「アントニオ古賀よりうまいぞ」とか言われて。
矢井田瞳 あはははは……
山口洋 どっちがエネルギーもらってんのかわからないなと。そのとき、音楽を通じて、やる側も見る側も離れて住んでいる人も現地に住んでいる人たちも、ちゃんと気持ちを還流させることができるって確信したんです。僕みたいなものが何ができるのかはわかんないけど、活動を続けて還流し続けていけばいいのかなと。みんな何かしたいと思っているけど何をしていいのかわかってないっていう。そんな全国の人たちの気持ちの受け皿になって……
矢井田瞳 今の話を聞いていて思ったのは、洋さんとMY LIFEをやっていなかったら出会っていなかった人たちがいっぱいいるなと。行動を起こしてなかったら出会えなかった人に出会わせてもらった。すごいことだなって。
山口洋 佐藤タイジが主宰するTHE SOLAR BUDOKAN(太陽光から生まれた電気でロックする!未来のエネルギー革命へ繋がるスペシャルライブ!!)で、チャボさんのチームがで「MY LIFE IS MY MESSAGE」のタオルを作ってくれて、ステージ立ったとき、おそらく間違いなくヤイコちゃんのファンだと思うんですけど、タオルを掲げてアピールしてくれた。僕はライブでそういうことをされたことがないので、ぐっときて。おじさん最近、涙腺弱いので。チャボさんのチーム、タイジがいてくれなければ、ヤイコちゃんがいなければ、このわかりやすい連帯の感じはなかった。どんなに苦しくてもやんなきゃダメだ、みんなの気持ちが重なってるから、やめますなんてもう言えないって。誰が始めたとか問題じゃなくて、みんなの意志として、たとえは悪いかもしれないけど、僕が死んだとしても続いていけばいいと。
みんな役に立ちたいと思ってる
[写真]熱唱する矢井田瞳と山口洋(2014年12月26日・Photo by Mariko Miura)
動画URL:https://www.youtube.com/watch?v=hruZjnAE3xI
──相馬の民謡を演奏されたこともあったとか(「新・相馬盆歌」として2013年の夏に相馬で演奏)
山口洋 遠藤ミチロウさん(プロジェクトFUKUSHIMA!)から手を貸してほしいと言われて。でも、相馬の民謡なのにおじいちゃんおばあちゃん踊ってくれなかった(笑)
矢井田瞳 ミチロウさん、洋さん、チャボさんの3人で演奏されたのを見たんですけど、すごい迫力だった。あ、今すごいもん見てるってわかるんだけど、はぁぁーって、アーヨーとはならない(笑)
山口洋 なんか脅迫? 恫喝?(笑)
矢井田瞳 同じリズムがずーーっと続くと人間高揚していきますよね。
山口洋 リアクションは気にしないっていうか、千差万別でいいと思う。正しいと思っていて好きと思ったことを一生懸命やるでいい。そのOKテイクは25分くらいになってアナログ盤にしたら片面全部1曲みたいな(笑)
──表には出なくても、おじいちゃんおばあちゃんも何か感じてくれてたはずですよ。今後ですが、リニューアルを考えていらっしゃると……。
山口洋 昨年末から函館の食材と愛媛のみかんを合わせた「八味」(商品名は「WILD SIDE」)を販売し始めたんですけど、一生懸命作っても農協に納めるだけだったみかんが震災の復興のために使われる。みかん農家の人たちにとっても、生きてる実感が得られたのが嬉しいです。人が生きていられるのは自分の仕事とか思いとかが社会の中でどのように機能しているかの実感だと思う。そういうふうに還流させていく役目が音楽にあったりして……
矢井田瞳 私、洋さんにもらった大切な感情とか考え方とかいっぱいあって。わりとデビューしてしばらくは「仕事・音楽・生活・人間関係」ってバラバラだったんです。その方が楽だったんです。でもそれやと、一つ一つつじつまが合わなくなってどんどんどんどん苦しくなっていって息が詰まったときくらいに洋さんに出会って……それからはその4つがどんどん全部一緒のことなんだなっていうふうにぐるぐる回ってて。全部一緒の方が楽。血流がいいです。問題が起きたときもちゃんとたぐれば元が見えるというか……
山口洋 程度の違いはあってもみんな役に立ちたいと思ってるんですよ。ただ現代はその余裕がなくて。だから僕みたいな寅さんみたいな人間がそれを率先していて、へらへら笑いながらこんなことやってるくらいの感じがいいんじゃないかと。もう100回くらいやめようと思ったんですけど、そのたびに誰かが僕を助けてくれる。今や全国にそういう仲間たちがいる。全国から風を受けている。一次産業に限ったことではないですが、いい物をつくっているのに気持ちが孤立している人たちの気持ちを束ねて、僕らがその受け皿になって、福島のためになるようにする。そのために、ヤイコちゃんや仲間と相談してもっとわかりやすい形にリニューアルしていきたいと。どういう言葉で伝えればいいのか。「FOOD」(食べ物)っていうアクションがあって、「MUSIC」ってアクションがあって、「LIFE」っていうアクションがあって、「LIFE」のところが福島とつながっている。何のためにお金が使われて、どんな成果が出ているのかをもっとわかりやすく伝えたい。こうしたから福島がこう良くなってきたとちゃんと見えるように。全国を回って会って話を聞いて、お会いした人たちの意見やアイデアを交合して、うまく変えていけたらいいなと。
矢井田瞳 実際に会って一人ひとりの話を聞くっていうのはすごいパワーいると思う。
山口洋 うん、ときには切れたりね?(笑)でも僕らは最終的には音楽に昇華することができるから。今を生きている人たちの不満っていうのはネガティブなことだけど、それをポジティブに変えることが僕らの仕事。受けすぎると熱が出たりするんですけどね、でもそうしないと同時代の闇が見えてこない。
心強い・お母さん的、主婦的感覚のヤイコの存在
[写真]「娘もだんだん大きくなってきたので、これからもうちょっと地方に行ける機会が増えるかもしれない」と語る矢井田瞳
──お母さん的、主婦的感覚のヤイコさんがいらっしゃるのは心強いですよね。
山口洋 素晴らしいですよ。未知な領域ですから。ステージで隣で見てて、全然昔と違う。強いし……
矢井田瞳 強くなっちゃった……
山口洋 変な意味じゃなくて(笑)育児に疲れてるけど、頑張ってるときがあるんですよ。たいへんと思うけど何もしてあげられなくてつらい。
矢井田瞳 いえいえ。娘もだんだん大きくなってきたので、これからもうちょっと地方に行ける機会が増えるかもしれないので……
山口洋 まだ言ってないけど、オファーいっぱいあるんですよ。子供の前でやってくださいとかも。そろそろマネジャーに相談しようかなって(笑)
矢井田瞳 直接歌を届けるっていうのが一番いいと思うので、地方にも行きたいです。
──最後に福島への思い、今大切に思っていることを聞かせてください。
山口洋 福島の代弁はできないということを前提で聞いてほしいんですけど、阪神淡路大震災と東日本大震災で何が一番違うか、それは放射能があるかないかです。それはあまりにもヘビーな問題で。僕がこの活動を続けているのは、あそこで作られた電気を使っていたのが僕自身だったということ。僕は原発事故のときアメリカにいたんですが、胸が張り裂けそうだった。僕が使っていた電気のことでこんなことになっている、リアルに自分の問題だと。今も作業員の人たちが被ばくの危険性にさらされながら、作業を続けてくれていることを忘れたくないし、こういうことを繰り返さないために何ができるのかを考えるきっかけに僕らの活動がなれたらいいと思う。エンターテインメントってだけではなくて、試行錯誤しながら続けることによって福島のことを伝えていけたらいいなと。福島に行って彼らが何を思っているかを聞いて、みんなの思いを受けとめられる受け皿になれるように。ときどき「MY LIFE IS MY MESSAGE」のWEBサイトを見てくれると嬉しいです。
矢井田瞳 洋さんが全部言ってくれました。人と人とのつながりを持つこと、向き合うことって面倒くさいことも多いけど、希望があると信じて……。何もしないと何もおこらないということは学んだので、アクションを起こしていきたいと思います。
地図URL:http://map.yahoo.co.jp/maps?lat=37.796623640000014&lon=140.91946931&z=11
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