社会そのほか速
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紙をとじようと思ってデスクの上や引き出しを探しても、肝心な時になかなか見つからないのがクリップですよね。
そこで、使いたい時にすぐクリップを取り出せるような居場所を作ってみました。
お弁当のおかずを入れる「おかずカップ」には、金色やチェック、水玉など、何種類もの色や柄があります。このカップの底に、円形の磁石を両面テープで貼り付け、スチールの面にくっつけます。そして、クリップをカップの底に当て、磁石の磁力でくっつけましょう。これならクリップが見当たらなくなることもないし、使いたい時にすぐに取り外せますよね。
色や柄の違うカップを並べると、色とりどりの花が咲いたような春らしいデスク周りになるでしょう。(雑貨デザイナー 宇田川一美、写真とイラストも)
英語の授業で外国映画の活用を目指す映画英語アカデミー学会(会長=曽根田憲三・相模女子大学名誉教授)が14日、名古屋市千種区の愛知淑徳大学で開催され、市立あずま中学の松葉明教頭らが、映画を使った授業を再現し、教材としての可能性を強調した。
松葉教頭は映画「パーシー・ジャクソンとオリンポスの神々」や「スラムドッグ・ミリオネア」などの一場面を上映。「内容的に難しくても、一部に焦点を当てれば、生徒は十分についてくる」と指摘。さらに「映画を使うのは年間でも数時間だが、英語への関心が高まることで、教科書を使った普段の授業への取り組みも変わってくる」と語った。
岐阜県立羽島高校の日比野彰朗教諭と林洋佑教諭は、同校独自に「映画英語」科目の開講準備を進めていることを報告。英語嫌いが大半だったクラスで、映画を使った授業の様子をビデオで紹介した。
学会と同時に、市民向けの映画英語フェスティバルも開かれ約300人が参加。元TBSアナウンサーでタレントの小島慶子さんが「英語と映画と子育てと!」のテーマで記念講演し、映画「ダイアナ」などの上映会もあった。
[写真]原画と向き合って制作意図を説明する矢野博さん=大阪市天王寺区東高津町5の新風書房
大阪市平野区在住の矢野博さんが、7歳で体験した大阪大空襲の悲惨さを伝える記録画集「あの日、あの時 国民学校一年生の記憶」を、大阪の出版社「新風書房」から刊行した。矢野さんは長らく看板職人として絵筆を執ってきただけに情景描写が臨場感にあふれ、漫画風タッチでだれにも読みやすい。出版を記念して15日まで、原画展が新風書房で開催されている。
疎開先から一時帰郷の際に遭った大空襲
[写真]記録画集「あの日、あの時 国民学校一年生の記憶」(絵と文・矢野博、新風書房刊)
矢野さんは1937年生まれの77歳。1944年、市立浪速津国民学校に入学後、滋賀県へ集団疎開し、お寺で級友たちと共同生活をしていた。翌年の3月、進級準備のため一時的に大阪へ戻ったが家族との再会を喜んだのも束の間、13日深夜から14日未明にかけて大阪大空襲に見舞われた。
矢野家は父母と長兄、次兄と矢野さんの5人家族で、浪速区内の長屋で暮らしていた。空襲時、父親と長兄は徴用で不在だった。
次兄は9歳、矢野さんは7歳。米軍のB29爆撃機の来襲を知らせる空襲警報が鳴り響いた瞬間から、矢野家の親子3人が逃げ惑った一部始終を、矢野さんは読みやすい漫画風タッチで克明に再現している。
頭から水を浴びながら懸命に避難
[写真]原画展会場で来場者と語らう矢野さん(左)
近くの防空壕に逃げ込んだが、空襲の衝撃音は強まるばかり。班長が外を確認すると、火の手が迫っていることが判明し、一転して「逃げろ」と指令が飛ぶ。しかし、正しい避難路を決める術はない。情報が入らないまま、どの方向へ逃げるかで、生死が分かれた。
焼夷弾が雨のように降り注ぐ。焼夷弾は木造家屋を焼き払うために開発された爆弾で、焼夷弾が爆発すると、周囲一面に炎が舞う。人々は次々と襲ってくる猛火を避けながら、走って逃げるしかなかった。
矢野さんは「細い路地を逃げながらも、火の粉が飛んできて熱い。母は防火用水を見つけると、私たち兄弟に何度も頭から水をかけてくれました」と振り返る。空襲を免れた天王寺区内の伯父宅へようやく辿り着くころには、夜が明けていた。
話すのは苦手、ならば本職の腕で次世代に伝える
この第1次大阪大空襲で4000人が死亡。被災家屋は13万6000戸、被災者は50万人におよんだ。国民学校に通う子どもたちも多数犠牲になった。
主要都市への空襲から原爆投下を経て終戦へ。焦土で迎えた戦後も、暮らしは楽にならない。矢野さんは「駅の構内などで戦災孤児をよく見かけた。生活のために靴を磨く少年たちもいましたが、靴を磨かせる大人たちに怒りを覚えました」と、当時の子どもの視点から戦後を見つめ直す。
漫画家や看板職人として黙々と絵筆を執ってきたので、語り部のように話すのは苦手という矢野さん。本職の画業で次の世代へ戦争の記憶を伝える道を選んだ。戦後70年、大阪大空襲をカラーで描いた画集として、資料的価値も高い。
「地震や台風は天災ですが、戦争は人災。人間の英知で必ず回避できる。私の画集が、平和の大切さを考えるための教材になればうれしい」(矢野さん)
画集は主な書店と新風書房で販売(税別・1800円)。原画展は15日まで、午前10時~午後6時、入場無料。詳しい問い合わせは新風書房(06・6768・4600)まで。
(文責・岡村雅之/関西ライター名鑑)
地図URL:http://map.yahoo.co.jp/maps?lat=34.6680433&lon=135.52131133&z=18
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結婚や出産を機に家庭に入った女性が、再び社会復帰しやすい職業として近年注目を集めているのが“日本語教師”。日本語を学ぶ外国人に日本語を教える仕事だが、母国語とはいいながらも、専門知識や素養が求められる職業だ。現在のところ、日本語教師になるための明確な資格はないので、ボランティアで教える場合はいつでも始められる。しかし、日本語学校などで職業として教鞭を執る場合には、日本語教育能力検定試験の合格者であることや、日本語教師養成講座で420時間コース修了者、大学や大学院の日本語教育を専攻していることなどが求められる。
東京中央日本語学院(TCJ)で日本語教師を務める増渕直子さん
一定の専門知識が必要で決して誰にでもなれるものではないが、母国語ということもあり、他の外国語よりも敷居が低く、働き方も選択できるため、いったん労働現場からリタイアした主婦が挑戦しやすく人気がある。そこで今回は、実際に出産・育児期を経て日本語教師として社会復帰した女性に、日本語教師の魅力を訊ねた。
日本語教師になる気はなかった!?
お話を伺った女性は、現在、東京中央日本語学院(TCJ)で日本語教師を務める増渕直子さん。2013年4月に長男が高校生になり寮生活を始めたことから、自由な時間が増え、TCJで1年間の日本語教師養成講座に通い始めた。そして、コース修了後の2014年4月から日本語教師として非常勤講師として勤務している。
養成講座修了後からすぐに日本語教師としての就職口が決まるなど、とんとん拍子に見える増渕さんだが、実は外国人にボランティアで日本語を教えていた期間が長い。
「今から10年以上前なのですが、2003年に長男が小学生になったのを機に、NPO法人JCAで日本語を勉強する外国人のお手伝いをボランティアで始めました。たまたま地元で日本語を教えるボランティアのための無料講座の募集があるのを見掛けて。多数の応募があったようですが、ラッキーなことに受講者の枠が得られたんです。そして、そこで出会った先生に近所の図書館での週1回のボランティアに誘われて。長男が中学を卒業するまで、そこでずっと日本語を教えるボランティアを続けていました」
とはいえ、当時の増渕さんは日本語教師として本格的に社会復帰をするということはあまり頭にはなかったという。「長男が高校に入学して寮生活になったのを機に、TCJの日本語教師養成講座に通い始めましたが、再就職というよりも日本語を教えるための勉強をもう一度体系的にしたかったというのが動機です。だから、またボランティアに戻るくらいのつもりだったんです」と増渕さん。実際には、養成講座の修了時に、TCJで偶然求人があったことや、同期の友人に誘われたこともあり、軽い気持ちで応募したところ、採用が決まったとのことだ。そんなまるで流れに身を任せるように現在のポジションに辿り着いた増渕さんだが、そもそも日本語教師に関心を持ったのは意外なキッカケだという。
英語が好きだった
「一番最初はどちらかと言うと英語が好きだったので、英語のほうを一生懸命勉強していたんです。大学時代にニュージーランドへ旅行した際にとても日本語が上手な現地の人に出会いました。そして『どうしてそんなに日本語が上手なの?』と訊ねると、ニュージーランドにある日本語の専門学校で勉強をしていると。その時に日本語教師に興味を持って、帰国後に早速日本語を教えるための養成コースを2カ月間受講しました。ただ、当時の日本語教師は待遇面などで安定した職業とはいえず、卒業後は外資系メーカーに就職して秘書をしていました」
そんな増渕さんだが、大卒で就職した企業はわずか1年間で退職する。「卒業後に就職した会社では、秘書の見習いで、私にとってはとにかくつまらなかったんです。外資系企業なので、もっと英語を使って仕事ができるのかなと思っていたんですが、事務的な作業が多く、私には向いていなかったんですね。それでもう少し英語力をつけたいと思い、1年で辞めて、半年間、イギリスで語学学校に通いました」
そして、その後は、以前実家にホームステイしていたスイス人の友人を訪ねて1カ月ほど一人旅をした後に帰国。帰国後は英会話学校に就職し、受付秘書業務に従事し、約2年後に結婚退職。後にご主人の転勤でアメリカに転居することになり、ここでまた日本語教師という現在の経歴に結びつく転機が訪れる。「主人の仕事の関係で、アメリカのメリーランド州で過ごしたのは1年間だけだったのですが、せっかくなので、大学の夜間コースでアメリカの歴史を学んだり、ボランティアによる困っている学生対象の英語コースを受講したりしていました。先生たちが自宅に招待してくれたりもするので、アメリカ人の一般生活を知る機会にもなりました」と増渕さんは振り返る。さらにその後は日本で長女を出産した後、3年後に転勤で今度は香港へ。約2年後に長男を出産した後、翌年に日本に帰国し、しばらくは育児中心の生活を過ごしていたそうだ。
日本語を教えることは”恩返し”
このように学生時代から英語や外国に興味があり、さらに留学やご主人の転勤で海外と日本を行き来する生活が続いた増渕さんだが、最初、ボランティアというかたちで日本語を教える手伝いを始めたのには、次のような想いがある。
「自分が海外にいたときに、ボランティアの方々に英語を教えていただきました。他にも、海外でいろいろ親切にしていただいていたので、その恩返しをしたい気持ちが強いんですよ。日本語教師養成講座に通っていた仲間の中にも、やはり海外で外国人にすごく助けてもらったから恩返しをしたいっていう人が多くいましたね。なので、日本で困っている外国人の方々をサポートできたらなぁという思いが自然とありました」
と、日本語教師への道のりを振り返る増渕さんだが、専業主婦として育児に専念した経験が日本語教師として活かされることも多いと語る。
「日本語教師に限らず、やはり子育て経験は”人に何かを教えること”に活かされると思うんですよね。お料理教室でも何でもいいのですが、何かを教えるっていうのは特に女性は向いているのかもしれない。子育てによって忍耐もつきますし、励ましたりとかもね。反対に、学生とのつきあいから子どもとの関係もちょっと勉強になることもあります。娘と同じぐらいの年齢の学生もいますし、今の若い人たちがどんなふうに考えているのかというのも理解できたり。若い生徒と接触することで、若さを保つこともできます(笑)」
主婦に向いている職業
また、日本語教師は主婦にとっては家庭と両立しやすい職業とのこと。「企業に勤めて、毎日働いて、朝から晩までの仕事というのは私にはちょっと無理でした。もちろん、出産前に仕事をバリバリやっていた方だったら、子育て期間中2年ぐらい休んでもまた復帰が可能だと思うんですけど、私みたいに緩やかなことをして、子育てをして、また社会復帰という場合には企業勤めでというのは難しいんです。その点、日本語教師は、主婦業をしっかりやりながらできる責任ある仕事です。それでいて自己実現にもなります。やはり、誰かのお母さん、奥さんという役割りだけではなんとなくさびしいし、もったいないですよ。一度家庭に入った方でも実践を重視している日本語教師養成コースを修了すれば先生になれます。私でもできたんだから大丈夫です。あとは本当に好きかどうかですね」と増渕さん。まさに“好きこそものの上手なれ”を地で行っているような増渕さんだが、日本語教師1年生としての実際の生活について次のように話してくれた。
「日本語教師って学校だけでなく家での作業が結構あるんですよ。主に授業の準備です。慣れてくれば楽になるんだと思いますが、まだ1年目の私には、勉強しないといけない事もたくさんあるので大変です。とはいえ、ちょこちょこと空いた日常の隙間時間にもできるのでそんなに負担にはなりません。私なんかは犬の散歩をしながら『明日の授業では、どんな文章を使おうかな~……』とか考えたり」
日本語教師の魅力
そんな日本語教師1年生として奮闘中の増渕さんだが、日本語教師の魅力について「やはり学生が理解してくれキラキラと目を輝かせるときが一番うれしいです」と明かす。さらに、「あとはちょっと大きなことを言っちゃうと、例えば日本と外国との関係が悪くなったときでも、その国の生徒たちに、微力ながらも日本の良さを伝えることで、日本に対して良い印象を持ってくれれば、そういうのが積み重なって国同士の関係もよくなるんじゃないかなと思うんですよ。年とともにだんだんと自分が生きているからには何か世の中の役に立たなければという気持ちが強くなるものなので、それを実現できるというのも魅力に感じます。それに日本語というのは学んでみるとすごく奥が深くて母国語とはいえ難しい。日本人でも知らないことがたくさんあって興味深いです」と話した。
増渕さんは日本語教師という現在のお仕事をまずはご主人が定年退職を迎えるまでのあと10年ぐらいは続けたいとのこと。「10年間、何かを継続的にやると達成感があると思います。とりあえず、節目として10年と考えていますが、日本語教師に定年はないようですから……。途中くじけそうになるときもありますが、好きなことだから頑張れるので、細く長く続けていけたらと思います。これは、日本語教師に限らないことですが、これから何かをスタートしようと検討している方は、それが本当に好きかどうかをもう一度考えてみてください。好きなことならあとはどうにかなると思います」と、専業主婦から再度社会復帰を考える人にアドバイスを送ってくれた。
[写真]小中学生から募集した真新しいヘッドマークで出発する北しなの線の妙高高原行き一番電車=長野駅
北陸新幹線が14日、金沢まで延伸開業しました。待望の新幹線に期待が集まる一方、延伸区間の並行在来線の第三セクターへの移管や新幹線と航空路線の競合など、地域・広域交通の再編成の動きが波紋を広げています。
金沢延伸により、長野、新潟、富山、石川各県にわたるJRの在来線は地元自治体などで構成する第三セクター4社に経営が移されます。これは、新幹線と在来線の両方を経営することによる負担を軽減させるための従来からの政府方針です。各社はそれぞれの地域の支援策など課題を抱え、これからが正念場です。
少ない乗客とのしかかる除雪費用
[図表]並行在来線の路線図
長野新幹線開業時(1997年)にJR信越本線・軽井沢~篠ノ井間(篠ノ井~長野間はJR篠ノ井線に乗り入れ)を引き継いでいだ第三セクター「しなの鉄道株式会社」は、北陸新幹線開業に伴い、14日からJR信越本線の長野駅~妙高高原駅間37.3キロメートルを「北しなの線」として営業区間に加え運行開始です。
新潟県の同「えちごトキめき鉄道株式会社」もJR東日本の信越本線・妙高高原駅~直江津駅間とJR西日本の北陸本線・直江津駅~市振駅間の2路線合わせて98.3キロメートルを運行。富山県の「あいの風とやま鉄道株式会社」や石川県の「IRいしかわ鉄道株式会社」も県境を挟んで北陸本線区間の運行を担います。
これら並行在来線は短区間であることや、もともと経営が苦しい区間だったことなどから、将来は楽観できません。山間部の積雪地帯の線区を引き継いだ場合は、乗降客が少ない上に除雪費用などの負担も大きいのです。このため長野駅~妙高高原駅間の場合は、県や沿線自治体の財政支援のほか、広域的な貨物輸送機能を確保する狙いの国の補助金、年間4億円を見込み、赤字転落を避けることになりました。
[写真]北しなの線開業に取り組む「しなの鉄道」(長野県上田市)
しなの鉄道「北しなの線開業準備室」の高野昭次室長は「かつて経営危機に陥った経験から万全の態勢で臨みます。利用者にご迷惑はかけません」と強調します。危機の後、これまで経営努力で10期近く黒字を出してきましたが、沿線自治体や国の支援が大きな支えになっているため、経営見通しに楽観は許されない状態は続きます。
このため第三セクターの鉄道は料金がこれまでより高くなる傾向があり、利用者増を図りたい三セクにとってはつらい板挟み。厳しい経営努力や地元自治体などの支援が今後の大きな課題です。
三セク移行で北陸を結ぶ特急が廃止
また、三セク移行に伴い、新潟と金沢など北陸を結ぶ従来の特急などの廃止も決まり、在来線の使い勝手が変わってきます。新装の長野駅ビルがオープンした3月7日、大阪から鉄道写真を撮りに長野を訪れたという男子学生(20)は「大阪から見ると、金沢までは在来線特急があるから便利だが、せっかく新幹線ができても特急の廃止などで金沢以北から新潟、東北への利便性が見えてこなくなったのが残念」と話していました。
一方、複数県、首都圏にまたがる広域交通として、早くも新幹線と航空各社の競合が激化。空路の料金設定などが焦点になりそうです。空陸2つの高速交通に、利用者の選択の行方は? 7日に長野駅ビルを訪れた千葉県の主婦(62)の場合は「金沢に単身赴任している夫を訪ねるときは飛行機で羽田から小松空港に行き、バスで金沢に向かっていたが、北陸新幹線なら金沢駅着でとても楽。これからは新幹線にします」と話していました。
金沢延伸が実現した北陸新幹線は、当初予定を前倒しして、2022年度末に福井県敦賀市まで開業する方針が決まっています。
(高越良一/ライター)
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