社会そのほか速
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「2020年には、出生数の5%、年間5万人に、この産後ケアプログラムを届けるインフラを整えます。それは社会で活躍する人材を増やす戦略にもつながります」――。
NPO法人ETIC.が主催する社会起業家の支援プログラム「SUSANOO(スサノヲ)※」の最終発表会が今月3日、東京・渋谷で開かれた。大企業、行政、学校法人、メディアなど各分野から集まった参加者を前に、NPO法人「マドレボニータ」の代表、吉岡マコさん(42)は、「産後ケアの拡充に社会全体で取り組めば、女性の就業率や出生率の増加につながる。そして社会はもっと良くなる」と訴えた。
マドレボニータは、1998年から産後女性の心と体のヘルスケアプログラムの研究、開発に取り組み、「産後のボディケア&フィットネス教室」を全国で展開。同時に、産後ケアのパイオニアとして調査・研究活動にも力を入れ、「子育てするためにも社会復帰のためにも、産後にはリハビリが必要」と、啓発活動を続けている。
今でこそ社会起業家のロールモデル的存在のひとりとされる吉岡さんだが、17年前は、出産でボロボロになった自分の体と、百八十度変わってしまった目の前の世界にがく然とする、25歳の大学院生だった。
身体について研究し、いずれは大学教授に――。東京大学から同大の修士課程(身体運動科学)に進んだ時は、そんなキャリアプランを描いていた。当時は就職氷河期。96年には孫正義氏が「ヤフー」を設立し、大学先輩の堀江貴文氏がインターネット関連会社「オン・ザ・エッヂ」を立ち上げるなど、「進む道は就職だけではない」という空気が生まれ始めた時代だった。
修士課程では運動生理学的な実験や測定などのトレーニングを受ける一方、学外では臨床心理学や東洋医学、ヨガやダンスセラピーなども広く学んだ。若くしてシングルマザーになった友人たちが共同生活する家に出入りして子供たちと過ごしたり、保育園の送迎をしたりもし、「子供って産んだらなんとか育てられるものだな」とも感じていた。
研究者を目指していたが、途中で研究そのものに意味を見いだせなくなる。「大学院、やめようかな」と考えていた時、担当教官の勧めで、世界中の大学院生が集まる研修会の開催場所、ギリシャへ。そこで一人の男性と出会った。
「結婚して子供を産むのもいいかも」。研究室の中で身体と向き合うよりも、自分の身体で出産し、家族をつくる方が手応えのあるように思えた。24歳で妊娠、25歳で出産。パートナーをギリシャに残し、学生だった妹と2人暮らしの都内の部屋で、産後の生活が始まった。
ところが、待っていたのは予想外の事態。産んで身軽になったら荷物をまとめてギリシャに旅立とうと思っていたが、甘い考えだったと思い知る。「足腰は立たず骨盤はグラグラ。傷も痛むし、立つとめまいに襲われる。体は弱り、時間があれば横になっていた」。自ら進んで食事作りや手伝いに来てくれたシングルマザーや独身の友だちのおかげで、なんとか1か月、生き延びた。
心もダメージを受けた。同級生が新卒でバリバリ仕事をしているのに、もはや自分は就職活動すらできない。「子供を産んだら母としてしか存在できないことに、産んでから気づくなんて。自分はあっちの世界に居場所を持てるのか――」。焦燥(しょうそう)感に襲われた。
世の母たちは皆、同じ道を通ってきたはずだ。それなのになぜ、産後の心身のダメージについて誰も教えてくれなかったのか。行政にも民間にも、なぜそれをサポートする仕組みがないのか。そもそも、それに関する文献すら日本にはないなんて――。驚きと疑問が次々と湧き上がった。
産後1か月が過ぎたころ、大学院の友人がプレゼントしてくれたバランスボールに座って弾んでいて、腕に抱いた赤ちゃんがご機嫌なことに気づいた。息が弾んで汗をかく爽快感も味わった。「バランスボールなら、赤ちゃんと一緒に有酸素運動ができる!」
生来の探究心が動き出した。ボール上でどう動けばどこの筋肉を使い、消耗した産後の体をリハビリすることができるのか――。弾みながら手足を動かしてはノートにメモを取り、また弾む。生身の体を使った実験が始まった。
そして産後6か月の98年9月、初の「産後のボディケア&フィットネス教室」を開催。下北沢の鍼灸(しんきゅう)院の一室に、7組の親子が集まった。「こういう教室がほしかった!」。イキイキと変化していく母たちを見て「このプログラムは必要とされている」と確信した。
しかし、満員御礼の12月を最後に、教室を閉鎖。パートナーとの別離で仕送りがなくなり、教室だけでは食べていけなかった。夫婦にとって、産後の一番大事な時期を一緒に過ごせなかったことが、決定的な打撃となった。
だが、あきらめたわけではなかった。翌1月からは医療系出版社の契約社員となり、子供を保育園に預けてフルタイムで働きながら「いつか再開しよう」と思っていた。実際、教室をやめた後も、新聞記事を見た人からの問い合わせは途切れなかった。
99年7月、満員御礼で教室を再開。週5回スポーツクラブでアルバイトをしながら、週1回、教室を開いた。参加者の口コミ、そしてブログの効果で集客は順調に進み、全国各地からも受講生が来るようになった。
2002年にはインストラクターの養成コースを開始し、団体名をスペイン語で「美しい母」を意味する「マドレボニータ」と命名。教室の数も増え、活動が広がり始めた。
「日本の母子保健制度を変えるためには商業主義に走るのではなく、社会活動としてやるしかない」と、08年にNPO法人化。11年には「マドレ基金」を立ち上げ、ひとり親や多胎児の母など、社会的に孤立しがちな母親たちへの支援も始めた。現在は13都道府県50カ所で21人のインストラクターが教室を開き、14年の受講生は6610人に上った。
産後女性が心身の健康を取り戻すことは、産後うつや虐待の防止、そして夫婦の健全なパートナーシップの構築につながっているという。さらに長年、教室を続ける中で、副次的な効果も見えてきた。教室の卒業生の地域や職場、社会での活躍ぶりだ。
東日本大震災で被災した妊産婦さんを助ける活動に奔走したり、産後女性をサポートする「産後ドゥーラ」を広げるため一般社団法人ドゥーラ協会を立ち上げたり。職場復帰後にマドレボニータが自費出版した『産褥(さんじょく)記』シリーズを自社で電子書籍化した人や、新聞記事やテレビ番組で社会に発信した卒業生もいる。
たくさんの産後女性に向き合うなかで、目指すビジョンが見えてきた。産後をきっかけに自身の心や体に向き合い、本来の自分の力をとりもどした女性たちが、家庭、地域、社会で、自分が本来もつ力を発揮して、いい影響を与え、その影響が循環していく。それを吉岡さんは「美しい母文化」と呼ぶ。2015年には、自治体との連携を深めると共に、企業や団体、研究者らを巻き込んで「女性活躍支援のための研究会」を発足させることにしている。
吉岡さんは言葉に力を込めた。「こういった美しい母文化が広がれば、社会は確実に変わる。マドレボニータはその旗振り役として、市民が力を発揮するためのプラットフォームであり続けたい」
(NPO法人ETIC. 平地紘子)