社会そのほか速
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太平洋沿岸の高台にある岩手県山田町立船越小学校。
2月17日の昼休み、相談室に遊びにきた児童らが、スクールカウンセラーの宮下啓子さん(54)に「怖かった」「サイレンの音が嫌だった」などと口々に言った。
その日の午前8時過ぎ、三陸沖を震源とする地震が発生し、震度3を記録した山田町の沿岸部には7か月ぶりに津波注意報が出された。発生直後、全校集会で体育館にいた児童約130人の中には、動揺して周囲を見回す子、声を押し殺すように両手で口を塞ぐ子もいた。
東日本大震災当時、船越小の校舎は今より10メートル低い敷地に立ち、津波は2階まで及んだ。児童や教職員は高台に逃れて無事だったが、校区内では家屋の4割が損壊した。
宮下さんは「震災の恐怖の記憶は根深い。普段は忘れていても何かのきっかけでよみがえる」と話す。
震災の翌2012年、臨床心理士の資格を生かし、被災した子どもたちの力になりたいと、大阪府内の中学校教員を辞めて岩手県宮古市に来た。県のスクールカウンセラーとして山田町などの小中学校を巡回する。
子どもたちは当初、震災の話には触れたがらなかったが、休み時間に声をかけたり、一緒にパズルで遊んだりするうち、話をする子も出始めた。
「絵を描くのが好きになった」。震災で父親を亡くした、ある小学校の高学年男児は面談でそう話した。理由を尋ねると、「お父さんが絵が得意だったから」と打ち明けた。父親を亡くした別の高学年の女児は「お父さんをよく思い出す。懐かしいというより、悲しいイメージ」と漏らした。
宮下さんは担任教諭らと協力し、子どもたちに少しずつ震災に触れさせる授業も始めた。
船越小6年のクラスでは昨年末、1995年の阪神大震災後に作られた絵本「かばくんのきもち」の読み聞かせをした。
震災後、無気力になったかばくんが、つらい気持ちを家族や友人に話す大切さを知り、元気を取り戻していく物語だ。地震にかかわる内容に表情をこわばらせる児童もいたが、宮下さんは苦しさに向き合うことで前へ進んでいけると伝えた。
個人面談で一人ずつ心理状況を把握した上で、今月3日の授業では、子ども同士が震災の体験を語り合った。冨山英恵さん(12)は「震災の話は友達ともしなかったけど、これからは逃げないようにしたい」と話した。
「震災を語り始めた子どもたちに寄り添っていけたら」と宮下さん。しばらくは被災地にとどまり、その思いをしっかり受け止めたいと考えている。
山田町 人口約1万6000人。東日本大震災では、沿岸部を中心に全戸の約4割が全半壊した。死者・行方不明者は824人。小学校9校、中学校2校、高校1校がある。船越小は昨年4月、被災3県で校舎が損壊した小中高校では初めて高台に移転した。