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最近は減少傾向にある時代劇だが、それをめぐる環境から、日本で初めてのものが生まれた。日本初のテーマパークは時代劇が由来だったと、『時代考証学ことはじめ』などの著書がある編集プロダクション三猿舎代表・安田清人氏が、その成り立ちについて解説する。
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時代劇が全盛期に比べて衰退したのは、疑いようのない事実だ。しかし、時代劇がなくなってしまったわけではない。時代劇をめぐる「環境」はどうなっているのだろう?
ということで、時代劇の撮影に使われている、オープンセットをもつ撮影スタジオを訪ねてみた。時代劇の撮影スタジオとしてもっとも有名なのは、東映京都撮影所だ。京都市右京区の太秦(うずまさ)地区には、「東映京都」と総称される、東映グループの各事業所がある。事業所は東映株式会社京都撮影所、東映太秦映像株式会社、株式会社東映京都スタジオ(東映太秦映画村)の3つだ。
そのルーツは、1926年(大正15)、人気俳優の“阪妻(ばんつま)”が自ら設立した阪東妻三郎プロダクションの自社撮影所。以後、松竹傘下の「帝国キネマ太秦撮影所」「新興キネマ京都撮影所」などの組織変更を経て、戦後の1951年(昭和26)に東映が発足すると、「東映京都撮影所」となった歴史を持つ。その後、映画・テレビの時代劇を数多く生み出し、現在は時代劇だけでなく現代劇の撮影なども行なわれている。
太秦の東映、というと、「映画村」を思い浮かべる方も多いだろう。東映太秦映画村は、東映子会社の「東映京都スタジオ」が運営するテーマパークで、東映京都撮影所とは別組織になっている。映画村が誕生したのは1975年(昭和50年)。今年(2015年)でちょうど40周年を迎えることになる。
日本初のテーマパークとして発足した「映画村」は、オープン3日間で7万人以上の来場者を呼ぶ人気スポットとなり、現在でも、子どもたちの忍者人気を当て込んで、新たに「忍者修行道場」「忍者の砦」といったアトラクションを設けるなど、新たな客層の開拓にも余念がない。
しかし、そもそもなぜ「映画村」ができたかというと、時代劇や任侠映画が衰退し、京都撮影所の経営が困難になったからだ。オープンセットを有料で開放してテーマパークとするというのは、当時の京都撮影所長の高岩淡(たかいわ・たん)が、撮影所の生き残りをかけて生み出した「苦肉の策」であったという。
このあたりの事情は、先ごろ河出文庫の一冊としてよみがえった春日太一氏の『時代劇は死なず!《完全版》京都太秦の「職人」たち』に詳しいので、ぜひご一読を。…