社会そのほか速
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渡邉美樹 「我はキリスト」
「それでも最後には、神は助けてくれますよね?」
「いいえ、どんな人でも、どんな状況にある人でも、本当に羊になれる人は必ず勉強するんです。5分でも10分でも、しっかりと勉強した人しか、神はクリスチャンになさらないのです」
この一言で私はすっかり冷めた。
それはね~だろ、そんな言い方ね~だろ! 一生懸命に生きている親子なんだよ、ホントにいい人たちなんだよ。それでも神は、この人たちを殺すのか……。
宗教とは、100パーセント信じられるか、反対の0パーセントなのか、そのどちらかしかないことに気づいてしまったのです。
つまり、50パーセントしか信じない者は、1パーセントも救われないのだということ。
この中学の3年間、すべてを注ぎ込んだキリスト教の教えとは、私にとって無意味なものであったのかといえば、それは明確に「そうではない」と言えます。
それは一言で言えば、「聖書の考え方はいまも私の価値観のベースに大きくあるが、あのとき入信していた教団の考え方は、すべて受け入れられるものではなかった」ということ。
あの3年間、毎日毎日、繰り返し読んで、手垢にまみれて真っ黒になった聖書。
葦編三絶し、ところどころ修理し、中身には至るところに線が引かれている。
分厚い黒い表紙の聖書は何冊もあって、とても重かった。
いまでも時折、懐かしく頁をめくるその聖書の教えは、後に会社を創業する際の理念の元になっています。
キリストは、なにも悪くない自分が非難を浴びせられ、つばを吐きかけられ、最期には杭打ちにされます。
その自分を責める、バカにする苛め抜く人間のために、彼は命を捨てていくのです。それこそが愛だとして。
その生き方が、私のいちばんの根っこにあります。
それは「利己」に対する「利他」の精神とも違うもの。
「利他」とは、他人のためになにかを施して、尽くすことです。
それは見返りを求めるという根拠に基づくものであり、ならば「利他」などという聞こえだけいい言葉で糊塗せずに、堂々と「利己のために相手に尽くそう」と。
ワタミという会社は、そんな理念の会社でありたいと、設立時に標榜しました。
http://www.berrys-cafe.jp/pc/reader/page.htm?pageId=11199143
http://pbs.twimg.com/media/BPQ1_s-CcAANZNo.jpg