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太平洋戦争で沈んだ巨大戦艦「武蔵」の発見が世界を震撼させている。発見者である米マイクロソフト・共同創業者のポール・アレン氏は今も続報を伝え続けており、その全貌解明に胸を膨らませている人もいることだろう。
戦艦「大和」と「武蔵」は、日本がかつて世界に誇った”姉妹艦”だった。だが、「大和」と「武蔵」に、実は「信濃」という“妹”がいたということは、あまり知られていない。
「信濃」とはどんな軍艦だったのだろうか。1940年5月に、「大和型戦艦3番艦」として、横須賀海軍工廠で建造が始まった。これは「武蔵」の建造開始から2年もあとのことだ。当初、1945年3月末の完成を予定していたが、翌1941年12月になると、太平洋戦争が始まってしまう。そして真珠湾攻撃やマレー沖海戦など緒戦の結果で、もはや戦艦は時代遅れで、これからは空母を活用した航空機の時代だということがわかると、「信濃」の建造は途中でストップしてしまう。
「信濃」の完成は幻に終わるかに見えた。だが、1942年6月のミッドウェー海戦で、日本は主力空母4隻を失う大敗を喫し、新たな空母を急造する必要に迫られた。
そこで浮上したのが、「信濃」を空母に改造する計画だった。一説には、大和型戦艦の象徴である、主砲の「46センチ砲」を、呉から横須賀に運搬する専用輸送船が米潜水艦に沈められてしまったため、もはや戦艦としての建造は困難になってしまったとも言われている。
こうして「信濃」は航空母艦に生まれ変わることになった。だが、戦争が激しさを増すに従って、軍艦の修理が増えてしまい、人手不足で信濃の工事はなかなか思うように進まなかった。その一方で、海軍首脳部から「1944年10月までに工事を完成させよ」との命令が下る。当初の予定よりも半年近く前倒しされた形だった。このため、工事には門外漢の女性なども動員された。
1944年10月には進水式が行われ、正式に「信濃」と命名され、横須賀での工事は完了した。全長266メートル、基準排水量6万2000トン―当時、世界最大の空母が誕生した。信濃は、1961年に米海軍の「キティホーク」が登場するまで、世界一だった。
だが皮肉なことに、「信濃」が完成した時に、日本には搭載できる航空機が残っていなかったとも言われている。
44年11月28日、「信濃」は残りの工事を行うために、呉に向けて横須賀を出港した。この時、搭載していた飛行機は特攻兵器「桜花」だけだったと言われている。…