社会そのほか速
[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
ただいまコメントを受けつけておりません。
身重だった娘の理香子さん(当時31歳)が亡くなった場所。臨時教諭として勤務していた隣の幼稚園から同僚と一緒に避難し、「陽彩芽(ひいめ)」と名前を決めていたおなかの娘とともに津波にのまれた。
今月2日に解体工事が始まるのを前に、この日はセンターで最後の月命日だった。年内に工事を終え、犠牲者を悼むメモリアルパークとして整備される予定だが、泰樹さんは「ここに来ると理香子に会える気がしていた。なくなったら、私たちはどこへ行けばいいのか」とつぶやいた。
東日本大震災発生から4日で1000日。津波の惨状を伝える「震災遺構」が次第に姿を消している。悲しみを思い起こさせる場所を目にしたくないという遺族への配慮や、保存費用をまかないきれない自治体の事情で、撤去に踏み切るケースが増えているためだ。
43人が死亡・行方不明になった宮城県南三陸町の防災対策庁舎。町は解体を決めたが、その後、国が震災遺構の保存費用の一部負担を打ち出し、先月、撤去方針は凍結された。町職員だった父を亡くした会社員の阿部慶佑さん(26)は「性急に解体しない方がいいのでは。一度壊したら戻らないし……」と複雑な表情だ。
震災遺構が消える前にレーザー測量し、3D画像で保存する取り組みも進む。中心になっている東北大の西弘嗣教授は「データを残し、防災教育や減災研究に役立てたい」と話しており、防災対策庁舎や気仙沼市鹿折(ししおり)地区に打ち上げられた漁船「第18共徳丸」など10か所前後を3Dにする予定だ。
その共徳丸は10月下旬に撤去作業が完了。旧市街地にさらされていた全長60メートルの船体はもうない。鹿折地区にあった自宅を流された自営業の男性(67)は「あんな船見たくもなかったけど、なくなったら何もわからなくなったなあ」と、更地を見つめた。
写真と文 青山謙太郎