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【訃報】四島司氏(ししま・つかさ=元福岡シティ銀行<現西日本シティ銀行>頭取、元第二地方銀行協会会長)が2月23日に死去した。90歳だった。葬儀は近親者で行い、西日本シティ銀行が後日、お別れ会を開く。
四島氏は、全国相互銀行協会(現第二地方銀行協会)会長に就任後、相互銀行を普通銀行(第二地方銀行)に転換させるべく働きかけ、実現させた立役者だ。
福岡県出身の四島氏は、慶應義塾大学卒業後、1951年に父の一二三(ひふみ)氏が創立した福岡相互銀行(後の福岡シティ銀行)に入行した。そして、「父に遠慮して意見を言わない行員が多い。個人商店がそのまま大きくなったようで、企業としての体裁をなしていない。このままではダメだ」と感じたという。
一二三氏に反発心を抱いていた四島氏は、まるで対照的な生活を送った。一二三氏が日暮れとともに床につき、夜明け前に起きて仕事をする一方、四島氏は朝帰りをすることも珍しくなかった。若い行員に禁酒禁煙を推奨していた一二三氏の面目が丸潰れになるようなドラ息子ぶりだったという。
69年、四島氏が44歳で社長に就任した際には「二代目はいつまでもつか」と、周囲からは冷ややかな目で見られた。以来34年間、同行の社長と頭取を務めて「九州財界の重鎮」になるとは、誰も予想しなかっただろう。
90年代のバブル崩壊後は、多額の不良債権が多くの銀行の経営を圧迫し、金融庁のシナリオに沿って、有力な地方銀行は次々と再編に動いた。2001年に長崎銀行を子会社化した福岡シティ銀行は、九州最大の地銀・福岡銀行との合併交渉を進めた。しかし、システム統合を居丈高に迫る福岡銀行の態度に、福岡シティ銀行の頭取を務めていた四島氏が激怒した。
結果的に、福岡シティ銀行と福岡銀行の合併はご破算になる。一二三氏が大の大蔵省(現財務省)嫌いで有名だっただけに、福岡銀行の上から目線に猛反発した四島氏は、父親譲りの起業家精神の持ち主だったのかもしれない。
その後、福岡シティ銀行は福岡銀行のライバル・西日本銀行に合併を働きかけ、02年4月に合意した。経営統合を決断した四島氏は、03年6月に頭取を辞任する。04年10月に福岡シティ銀行と西日本銀行が合併し、西日本シティ銀行が発足したが、四島氏は一切の役職に就かず、「潔い身の処し方だ」と評された。●芸術への造詣も深かった四島氏
「私は銀行に向かない男だ」
こんな言葉を残している四島氏は、計算高いバンカーというより、若手育成に燃えるインキュベーターであり、地場ベンチャー企業の育成に力を入れていた。若手経営者のための勉強会を開き、ベスト電器やロイヤル(現ロイヤルホールディングス)、三井ハイテックなどが大きく成長していった。
また、四島氏は絵画や彫刻、陶芸などへの造詣が深く、現代美術を集めた「四島コレクション」は高い評価を得た。バンカーのコレクターとしては、フランスの天才画家、ベルナール・ビュフェのパトロンとなった、元スルガ銀行頭取の岡野喜一郎氏と双璧を成す。
四島氏は「経営に行き詰まったと感じた時は、ニューヨークの美術館でモダンアートの抽象画を観ることにしている」と語っている。また、「芸術もビジネスも、つまるところ本質を見抜く感性が大事だ」という発言もある。
芸術だけでなく、人を見る目も確かな四島氏は、大分県出身の世界的な建築家・磯崎新氏を見いだしている。65年頃、知人の紹介で磯崎氏と会った四島氏は「将来、優れたアーティストになるに違いない」と直感、その場で大分支店の設計を任せたという。それを機に、磯崎氏は四島氏の銀行の支店の設計を次々と手がけた。
若くして社長に就任した四島氏が最初に取り組んだのは、福岡の玄関口といえる博多駅前に本店を構えることだった。そして72年、磯崎氏に本店の設計を依頼、外装にインド砂石を貼り、巨大な赤い一枚岩のように見える重厚感のある本店ビルが完成した。
前述の「四島コレクション」は、本店の部屋に飾るアート作品を選んだことがきっかけだったといい、四島氏は後年「磯崎と一緒に海外を回り、作者に会いながら少しずつ集めていった」と述懐している。
四島氏がパトロンとなった磯崎氏が、博多に作り上げたポストモダンな建物は、合併後、西日本シティ銀行の本店となっている。
(文=編集部)