バレンシアガ tシャツ 偽バレンシアガ tシャツ アウトレットバレンシアガ tシャツ メルカリ 忍者ブログ

コスプレ ハロウィン Big Hero 6を口コミ比較

社会そのほか速

<福島原発事故4年>原子力標語を作った双葉町の少年 27年目の思い

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。

<福島原発事故4年>原子力標語を作った双葉町の少年 27年目の思い

 <福島原発事故4年>原子力標語を作った双葉町の少年 27年目の思い

 

 [写真]大沼さんが小学校6年生のときにつくった標語。福島第一原発で7号機、8号機建設計画が持ち上がっていた頃だった

  東日本大震災から丸4年となる現在、福島県双葉町は一部の「避難指示解除準備区域」を除いて、町のほとんどが「帰還困難区域」に指定されています。東京と仙台を結ぶ国道6号線は、地元住民以外でも通行できるように開通され、国道以外の場所には許可証がなければ一切立ち入ることができなませんが、その道路を通過する人は、町の体育館の横に立てられた「原子力 明るい未来の エネルギー」という標語が書かれている看板を目にすることになるでしょう。
 
  東京電力・福島第一原発から約4キロの位置にあるこの看板は、今から27年前、国道からJR常磐線の双葉駅や市街地に向う入り口に立てられました。双葉町が原子力発電所と共存しながら歩んできた事を象徴したものとして、原発事故以降、特に関心を集めるようになったのです。
 
  今、この看板が撤去される可能性が出てきました。朝日新聞によると、双葉町は看板の撤去費用約410万円を盛り込んだ新年度の一般会計予算案を3月9日の町議会定例会に提出。周辺の放射線量が高く、補修工事ができず、劣化し危険との判断からです。

「原子力 明るい未来の エネルギー」

 [図]「帰還困難区域」「居住制限区域」「避難指示解除準備区域」の指定状況(内閣府の資料より)

  この標語を考えたのは大沼勇治さん(39)。作ったのは小学6年生のとき、福島第一原発の立地町である双葉町が、1988年3月に子どもたちを含む町民から標語を募集し採用されました。
 
 「(原発の)賛成派と反対派の両方が親戚にいた。町長は推進していて、幼い頃は町長の選挙事務所に連れていかれたりしていた。疑いはありましたよ。でも、親戚が東電に勤めていたので言い難い。母は神経質で『あんなものが近くにあって大丈夫なのか?』って言っていましたが、そういうことが言えない空気だった」
 
  福島第一原発は、大熊町と双葉町の境界に位置しています。1971年3月に1号機が作られましたが、この標語を募集していたのは、同原発で7号機と8号機の建設を計画していた頃でした(その後、原発事故により計画中止)。当時は町をあげて原発増設を歓迎するムードでしたが、チェルノブイリ原発事故(1986年4月)があった事もあり、大沼さんは原発に対して疑問を抱いていました。
 
  東日本大震災以前にも放射能漏れ事故や火災、臨界事故、硫化水素中毒事故などがあり、ニュースでは「隠していた」という話が流れてきます。しかし、いつしか「チェルノブイリは遠くのこと」と思うようになっていったのです。
 
 「そういうニュースをみると、またか、と思った。慣れっこなっていった。小学生のときの方が原発は危険だと思っていた」

社会人になり原発との「共存」模索

  大沼さんは高校卒業をして一度、県外に出ましたが、大学を卒業してから双葉町に戻ってきました。原発に対して抱いていた危険なイメージは徐々に薄らいできていき、むしろ、不動産屋に勤務していたことから、東電と共存することを考えていくようになりました。
 
 「当初、漫画喫茶を作ろうとしたが、銀行の融資が通らない。一方で、東電社員のためのアパートを作ろうとしたら、融資が通る。東電は人生の成功モデルという感じだった。部屋代の半分は会社が出していたので、本人は負担を感じてないようだった」
 
  標語の看板の近くに、東電社員らが利用するためのオール電化のマンションを建設しました。大沼さんは原発とともに成功するパターンを見つけていったのです。ただ、将来は双葉町から東京へ移り住もうと考えてもいました。
 
 「双葉では職業を選べない。月給も少ない。実家住まいなので家賃はかからなかったが、お金も貯まらない。そして、事故があって180度変わった」

震災、原発事故で状況が一変

  2011年3月11日午後2時46分、大地震が東日本を襲います。大沼さんは、妊娠7か月の妻のせりなさん(39)に電話をしました。
 
 「早く逃げろ」
 
  地震は断続的に30分も揺れました。「この地域は地震がないので油断をしていた」という大沼さんでしたが、そのうち、いろんな情報が入ってきました。会社内では「東電関係者が逃げている」という声も聞こえてきました。しかし、すでに周囲の道路はどこも大渋滞。双葉町から隣の大熊町に行くまでに2時間もかかりました。その後、南相馬市や相馬市の道の駅に避難していましたが、2日後にはせりなさんの実家がある会津地方に避難しました。
 
 「会津は原発から離れているし、磐梯山もあるため、放射能をさえぎるのではないか。何かあっても、新潟に行けばいいと思っていた」
 
  結局、3月末には、身ごもっていた子どもが放射能の影響を受けないようにと、親戚が近くに住んでいることもあって、愛知県安城市に避難、借り上げ住宅に住む事になりました。同市では、脱原発についての講演を30回以上も行いました。避難暮らしのなかで、子ども2人が生まれました。

初期被ばく量は分からないまま

  福島から遠くへ避難したと言っても、すぐ近くで原発事故が起きたという現実は消えません。内部被ばくの検査は事故後3年経ってから行われたため、初期被ばくはわからないままです。
 
 「リスクがゼロにはならないので、(内部被ばく量を)下げる努力をするしかない。例えば、水は買うことにしている。米は秋田や新潟ものを買っている。個別に見ればきちんと検査をしている食品もあるでしょうが、産地は選ぶようにしている。ただ、(現住地の古河市で買う食材は)茨城産としか書いていないため、具体的にはどこかは分からない。住宅の資材だって心配といえば心配」
 
  妻のせりなさんは毎日の食材には気を使っています。ただ、心配すればするほど、どこまで心配できるのか切りがないとして、こう話しました。
 
 「初期に被ばくしたものを子どもには残したくない。でも、今は分からなくても、影響が10年後、20年後になるのかもしれない。買ってきた水も、セシウムが入ってないとは言い切れない。外食産業も分からない。どこの魚、肉を食べているのかも……。日本に住む限りは切っては切れない問題ですが、どうしようもない。諦めている。だから、そんなに神経質になってはいないです」

原子力標語を“書き換え”

 [写真]原発事故後に大沼さん(右)が思いを記したパネル。背景の写真では標語の“書き換え”を行っている。右後方には原子力標語の看板が見える

  大沼さんは、これまでの4年間で、双葉町に何度も一時帰宅しました。その際、原子力の標語について反省の気持ちを込めて、標語の“書き換え”を行なうようになりました。標語の一部を別の言葉にし、その言葉を記した紙を持ちながら、写真を撮影しているのです。
 
  「原子力 明るい未来 ……じゃなかった」
  「原子力 制御できない エネルギー」
  「脱原発 明るい未来の エネルギー」
  「核廃絶 明るい未来の エネルギー」
 
  これらの言葉はその時に思いついたもの。そして、看板近くには自らの心境を書いたパネルを設置しました。
 
  新たな未来へ
  双葉の悲しい青空よ
  かつて町は原発と共に「明るい」未来を信じた
  少年の頃の僕へ その未来は「明るい」を「破戒」に
  ああ、原発事故さえ無ければ
  時と共に朽ちて行くこの町 時代に捨てられていくようだ
  震災前の記憶 双葉に来ると蘇る 懐かしい
  いつか子供と見上げる双葉の青空よ
  その空は明るい青空に
 
  震災3年 大沼勇治
 
 「(帰るべき故郷を)失ってから考えるようになったんです。事故後の写真を撮ろうとも思いました。子どもたちに伝えないといけない」

福島は出たが「故郷に変わりない」

 [写真]現在は茨城県古河市で暮らす大沼さん一家

  現在、大沼さん家族4人は茨城県古河市で暮らしています。福島第一原発から約260キロの位置。震災前は不動産業でしたが、太陽光発電の会社を起こしました。茨城県石岡市、常陸太田市、栃木県さくら市と那須烏山市でソーラパネルを設置して、発電しています。
 
 「僕たちは福島を出たが、福島県民だと思っている。故郷には変わりはない。阪神大震災も今年で20年経ったが、(4年経った福島の事も)節目節目で思い出してもらいたい。家庭内で福島のことを話すだけでも違う。福島では、現在進行形で復興作業が続いている。原発事故は日本だけでなく、世界中の問題だ。のちのち恩返しをしたい。底力を見せたい。歴史を学ぶのは、歴史がなくならないためだ。当事者自ら訴えていかないと説得力がない」
 
 (ライター・渋井哲也)

 本記事は「THE PAGE」から提供を受けております。
 著作権は提供各社に帰属します。

PR

コメント

プロフィール

HN:
社会そのほか速
性別:
非公開

P R