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今や日本で最も有名な写真家と言っても過言ではない気がする蜷川実花の個展「蜷川実花:Self-image」が、東京品川の原美術館で、5月10日まで開催中だ。
蜷川実花の写真といえば、まっさきに浮かぶのが、花や金魚、かわいい雑貨や風景、俳優、アイドルなどを撮った極彩色のもの。だが、この個展では、モノクロのセルフポートレートという、彼女への先入観を大きく覆す写真が数多く展示されている。それらは本人いわく「生身に近い、何も武装していない」写真たち。
原美術館は、1938年に施工した実業家の邸宅を美術館にした建物で、蜷川の写真は、そのひんやりとしたモノクロのスタイリッシュな屋敷の部屋の中だけでなく、廊下や階段に展示されていて、それがまた私的な秘密を匂い立たせるようだった。
まず、1階の手前の部屋の中で、蜷川の映像と渋谷慶一郎による音楽とのインスタレーションが行われている。次の部屋では、いよいよ写真。青い空、海、咲き誇る花々、というエネルギッシュな写真──本人のブログのタイトル「人生、気合いっす!」という言葉のような世界とは反対側の、毒や闇、死の気配のようなものを撮った「noir」シリーズが展示されている。前者が愛や正義のために闘う魔法少女の世界であれば、後者はお姫様を追いつめる魔女の世界という感じ。
内容はダークではあるが、色味としてはサイケデリックな感じの、蜷川に対する大方のイメージからずれるものではないが、2階へ行くと次第に変容していく。
2階にあがる階段には、透過性のフィルムにプリントした作品が窓のように展示されていて、その境界を通ることで、蜷川の内面世界に到達するようなトリップ感。
まずは、2010年の春のある日、3時間ほどかけて、目黒川の川面の降る桜の花を撮った「PLANT A TREE」シリーズ。降る雨に散る桜なのかなと思うほど、写真は千々に乱れた涙のようにも見えるし、奥の間のポートレートという武装ない自分を隠すためのものなのかもしれない。
それだけ、最後の間に展示されたモノクロのポートレートは、体の内の柔らかな部分を出している。初期の蜷川はよくセルフポートレートを発表していたが、あるときから長らく封印していたそうだ。
鮮やかな色彩やキラキラしたアイテムというキレイやカワイイの武装を解いて人前にさらされた、天井まで届くほどの巨大な蜷川実花には圧倒される。最近、自撮りが一般化され、盛んになっているが、これはもう大変高級な自撮り。
泣き写真にも胸を掴まれる。
作品は全部で約150点。未発表作も多数。蜷川実花の多層的な面を見られる貴重な機会だ。
ところで、今回、私は、初日前のレセプションで展示を見た。そのとき、蜷川実花の凄さを改めて痛感したのは、会場に届いた花の数だった。美術館の門から玄関までのアプローチにずらりと並んだ花、花、花。まるで宝塚スターの出待ちで人がずらりと並んでいるくらいの花の列で、そこもアートの展示のように見えた(レセプションの日はあいにく雨だったが)。
門を入ったど正面には、お父上である蜷川幸雄の花がどーん。それから村上隆、小泉今日子とあって、そのほか、秋元康と前田敦子と大島優子と並び、鈴木おさむをなぜかはさんでの篠田麻里子や、椎名林檎、KEITA MARUYAMA、向井理、市川染五郎、フラワーアーティスト東信、いろいろな出版社などなど。蜷川幸雄の花はジャングルの巨大な花のようで唯一無二のかっこよさだった。花には各自、送り主のキャラクターも加味してあるようだ。この花のアプローチは蜷川実花展に至るまでの贅沢なオープニングアクトのようで、建物の中にはいるまでひとしきり楽しめた。実際は帰りにじっくり見たのだが。
オープニングは1月24日からだというのに既に桜もある中、ひときわ目立っていたのが斎藤工の贈った花。彼は蜷川の撮影による写真集も出しているので花を贈るのは当然の行為だろうが、ただ、極彩色な他の花々の中で唯一真っ白(しかも大輪)だったのだ。これが蜷川実花のモノクロのセルフポートレートのイメージをさりげなく表しているようにも見えて、もしそんな大役を担っているとしたら、今の斎藤工のブレイク状態を物語っているようだと妄想、ひとしきり感慨にふけってしまった。もちろんあくまで妄想である。つまり、作家の内面世界から、そんなふうにたくさんの妄想が沸いてくる圧倒的な展示なのだ。花はもうないと思うけれど。それにしても斎藤工、やるな。(木俣冬)